「事件としての髭問題」とは何か

髭が生えるということは何か。これは「事件」である。

しかし、ここで私は「言説としての髭」について問いたいわけではない。

むしろ「あの髭」について問おうとしている。

そもそも、「あの髭」は言説なのかどうか、それが「問題」ではない。

朝起きたら生えてくる「あの髭」は、やはり「実体」に他ならないから、「問題」なのである。

まして、「あの髭」のことだ。

「事件としての髭問題」を解決できるのは、自分の肌に合ったカミソリを買うことである。そして、シェービング剤もつけるべきだ。

そして、力を入れて髭をそってはいけない。肌が荒れるだけである。

しかも、疲労のためにヘルペスが出てしまっては、もう「姉さん、事件です」(byドラマ「HOTEL」の赤川一平のナレーションより)と叫ばすにはいられないではないか。

この「叫び」こそ、「事件としての髭問題」における「内なる語り」に他ならないと言えよう。

なぜなら、「痛い」からである。これはもはや「言説」とは呼べないだろう。

つまり、「事件としての髭問題」とは、「あの髭」にまつわる諸契機について、朝起きるたびに、あれこれと考えなければならない、という「苦痛」や「憂鬱」のことを指しているのだ。

その意味において、我々は「事件としての髭問題」に真摯に向き合う時期が来たと言えるだろう。

(©ピヨピヨにっきブログ主)