アガンベン.G『ホモ・サケル』(3)

現代が思考に課している務めとは、意味のない効力としての法を、極端かつ乗り越え不可能な形式として単に認めることではありえない。そのような認識にとどまる思考はすべて、我々が主権の逆説(あるいは主権的締め出し)と定義づけた存在論的構造を反復するだけである。じつのところ、主権とはこの「我々が遺棄されてある、法の彼方の法」、つまりノモスが自らを前提とする権力のことなのであり、遺棄の存在をあらゆる法理念(意味のない効力という空虚な形式における法をも含む)の彼方で思考することができてはじめて、主権の逆説から脱して、いかなる締め出しからも解かれている政治へと赴くことができる。法の純粋形式とは、関係の空虚な形式のことにほかならない。しかし、関係の空虚な形式はもはや法ではない。それは、法と生が見分けがつかなくなる地帯、つまり例外状態である。……この遺棄において問題になっているのは、何か(存在)が他の何か(存在者)を放りだしてどこかにやってしまう、ということではない。その反対である。ここでの存在とは、存在者の遺棄されてある存在、存在が存在自体へと置き戻されてある存在にほかならない。存在とは、存在者の締め出しにほかならない。(p89-p90)