テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダス』(4)

この線は地図上でも、ワシントンとモスクワの会議室のなかでも、ひじょうに好都合だった。しかしあいにく、じっさいの地図上の上では、道や市の境界線、地域や文化や方言の区分、すべてについて不都合だった。なによりも、政治的“右”と″左”を分ける線と合致しなかった。こちらの分割線は、くねくねと曲がり、捩れながら、この国を縫ってのびていた。村の中心を、家と家とのあいだを、家族のかこむ食卓のまんなかを走っていた。さらには、日本に暮らす朝鮮人社会のまんなかをも貫いていた。冷戦を始めた両陣営のどちらのイデオロギーにも与しない自由な朝鮮のビジョンを抱く人たちの夢の中心を真っ二つに分けていた。太平洋戦争が終わったとき、どの国にもイデオロギー分断はあった。しかし朝鮮では、地図上に引かれたまっすぐな線によって、その分断がとくに険悪なインパクトを社会に与えた。線の両側に樹立された政府が、それぞれ、“右”と″左”を分ける線と北と南を分ける線をなんとか一致させようと躍起になるにつれて、どちらの側でも、政治的異論者は自分の国にいながら異邦人になっていた。南の体制を批判する人たちは、″北の分子”となり、北の体制を批判する者は″南のスパイ”になったのだ。こうして朝鮮人は、朝鮮においても、日本にいても、パレスチナの詩人、マフムード・ダルウィッシュの言う″地図の被害者”となった。

他の人たちのように旅をするが、

わたしたちはどこにも帰ることはない。

空を行く雲のように

             マフムード・ダルウィッシュ(p56-p57)