皆川淇園における〈開物〉の方法と〈象数〉の思考

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 1.問題の所在

古今文理の異を知らんと欲せば、則ち須く古今名義の深浅の別を知るべし。某以為らく、此れ開物を以てするに非ざれば得べからざるなり。某、幼より書を読み、今半百に過ぐ。日夜孖々として思を積み、勤を積んで、竊かに周易の開物に其の道を得る所有り。用いて以て万物を開く。道徳名物に於ひて符節を合する若き有り[1]

 皆川淇園1734-1807)は、自らの学問が『易経』をめぐる長年の思索に導かれたものであり、その思想的方法を〈開物〉にあると述べている。皆川淇園は、円山応挙(173395)・池大雅(172376)・伊藤若冲17161800)などの画人や、上田秋成17341809)・六如(17341807)・柴野栗山(17361807)といった文人・学者とも幅広い交流があり、当代一流の文人としての姿が知られている。しかしながらその反面で、淇園の思想が理解されているとは言い難い。皆川淇園の思想を一言で規定するのであれば、〈開物〉という概念に帰着する。しかしその前提として、淇園が『易経』により導かれたと自らが語るように、〈開物〉という概念をひとまず明らかにしておく必要がある。淇園は〈開物〉という方法について、次のように述べている。

 蓋し余少きより、易を学び、年三十近きに及びて、易は開物の道に有ることを悟る。而して其の道は文字聲音に由り要とす。乃ち入ること得べし[2]

 このような淇園の言葉から明らかなように、淇園が構築した〈開物〉と呼ばれる思想的方法は、それぞれの有形・無形の事象が持つ正しい〈名〉の来歴について、〈文字〉と〈音声〉との相関性から明らかにしようとするものだと言える。淇園の有力な支援者であった松浦静山1760-1841)は、淇園について、次のような墓誌銘を書いている。

 先生、私に謂らく、「字義を知らざれば、文固より作るべからず、また解すること能はず、経の不明なるは、職ら是による」と。これより専ら字書に潜む。而るに、字書の訓詁、往々にして仮借し、その真を得ず。すなわち古人の用字の例を類集し、深くその理を思い、疑竇やや通ず。また、これに象形に取り、これを声音に求めて、すなはち始めて口の言ふ能ざるを得。ここにおいて、名・物の義、声・象に本づくことを悟り、曰く「名は声より生じ、声は物より生ず。物は天地・陰陽・四時の常ある者より生じ、道徳を統べ、性情を貫き、声気に発して、民言に著はる」と。故に『易』の「説卦伝」に曰く、「神なるものは、妙にして、万物に言を為す者なり」と。凡そ聖人の道は、弁名を要と為す。名明らかなれば、即ち物察らかに、物察らかなれば、則ち文義は正当なり。『易』の「繋辞伝」に曰く、「それ『易』は何をする者ぞ。開物成務(物を開きて務を成す)なり」と。また曰く、「開而当名、弁物正言(開きて名を当て、物を弁へ言を正すなり)」と[3]

 淇園における〈開物〉という概念は、『易経』の言葉である「開物成務」(「物を開きて務を成す」)という文言から取られている。本稿は、皆川淇園の〈開物〉という方法を思想史的文脈から措定し、その思想的意義について明らかにすることを目的としている。しかしながら、淇園の思想は独自に編み出した難解な用語や概念を伴うものであるためか、その思想には常に否定的な評価が付与されてきた。たとえば、中村幸彦が「論理的に一種の哲学に構成し、一派の学をそこに樹立しようとために、難解に堕り、後継者を得なかった」[4]とし、また中村春作が、「一面独創的であるが、また儒学思想史上きわめて風変わりな説」[5]と述べている。あるいは浜田秀は、「自ら作り出した概念によって、独創的な体系を打ち立てるということは、同時にそれまでの思想史からの切断を意味する」[6]などと言及していることからも伺えよう。このように見れば、淇園自らがテクストの内部において語る言葉とその思想世界は、確かに理解そのものを拒むかのような印象を我々に与えていると言える。しかしながら、皆川淇園の〈開物〉という方法は、「思想史からの切断」を必ずしも意味しないのではないか。というのも、淇園のテクストを一つずつ繙いていけば、当時の韻学の知識や明末清初期における思想的動向が介在しており、さらにその易学的世界も淇園独自のオリジナリティというよりは、〈象数〉論という古典中国世界における易学思想に根ざしたものであった。本稿は、上記のような問題意識から、同時代のテクストの周辺にも光を照らすことで、淇園における〈開物〉という方法を再考してみたい。

 

2.〈物〉を開くということ―皆川淇園における〈開物〉をめぐって

淇園における〈開物〉という思想的方法は、『易経』の言葉の「物を開き務を成す」という文言に由来しているのは、先述した通りである。本節では、〈開物〉という方法について、淇園のテクストを参照にしながら明らかにする。淇園は〈開物〉という方法をどのように規定しているのであろうか。淇園は次のように語る。

聖人は己が私智を舎て、天地日月の道の大規矩に当てて物の真実を得て、それを執る所とせんと求め給ふことなりと見ゆ。是乃ち易の開物の道の由て起こる所なり。……開の字の義は、門内にかくれたる物の、戸を明くるに随ひあらはに見へ来ることをも、見え来さすをも言ふことにて、此に開物といへるは物を見へ来さすことにすることなり。……聖人の易を以て開くことを求め給ふは別に又其の一種の、虚にして目に遮ることなく、唯人心に其の一成したる処の様子のみありて、触れあたりて覚ゆる所の物あり。是れ其の開くことを求め給ふ所の者なり。此の物は文字を其の宅とし、名聲を其の號として、人の言語にたよりて人の意識の間に往来出没する者なり。此の物は天下の神明の片われにて、至極大切なる者なり[7]

其の本と云は、譬へば仁と孝の如きは、其の仁と云ふ名の聲の内に仁の物寓し、孝と称する名の聲の内に孝の物寓せり。此の故は、天下之億兆の民の好悪是非のある處にて、それを言ふに各其の言語あり[8]

淇園は、まず『易経』という書物が、そもそも〈開物〉の道を明らかにしたものであり、その上で、〈開物〉という方法がいかなるものなのかを説明している。淇園における〈開物〉という方法は、そのままでは経験することができない「虚にして目に遮」られている事象を〈開く〉ことである。その事象は「仁と云ふ名の聲の内に仁の物寓し、孝と称する名の聲の内に孝の物寓せり」と述べるように、〈仁〉や〈孝〉という道徳的事象である。かかる経験不可能な事象を〈開く〉ためには、「人の意識の間に往来出没」して生み出された〈名〉、つまり〈仁〉や〈孝〉という文字に刻印されている〈声〉の意味をめぐる思索を深めていくのが、〈開物〉という方法である。淇園が『易経』を単なる「卜筮書」ではなく、「聖人の道」を示した書物であると規定したのは、かかる〈名〉と〈物〉の関係性を暗示したものだからである。淇園は次のように語る。

 周巳後、開物の道湮晦して、漢より以後は絶へて知る人なし。是の故に、八卦は唯卜筮の用の供するより外はなしとのみ思へることになれり。是は以ての外なる伏犠得之以襲気母といへるを視れば、八卦の本体は即ち天地間の気母なることを知れる人の言出せる説と見えたれば、後世の人の八卦を卜筮の用ばかりなりと心得たる浅はかなる見とは格別なることと思はるゝなり。されば伏犠氏の八卦を画せられたるは、天下に王たる入用にて製作し玉へるものなり[9]

夫ノ形気之合ハ、固ヨリ天地ニ法テ、而シテ成ルコト焉。而ルニ民、自リテ其ノ然ル所以ヲ知ラザル也。唯ダ聖人、天地ヲ識リ、之ノ別ヲ知リ、其ノ文理ヲ象リ、八卦ヲ作リ、以テ神明之徳ヲ通シ、以テ万物之情ヲ類シ、用テ以テ名物ヲ開ク。是ニ於テ名物ノ義、大イニ晰ラシメ、民之性情、皆已ニ統ベル。・・・・・・是レ故ニ開物ハ、聖人ノ道ナリ[10]

このように淇園の〈開物〉という方法は、『易経』が「聖人の道」を示した書物であることを提示し、その「聖人の道」の教えが暗示されている〈名物〉の意味を〈開く〉ことにある。言い換えれば、淇園の〈開物〉という方法は、『易経』という書物に導かれながら、一貫として〈名〉と〈物〉をめぐる徹底的な思索に依拠したものであったと言える。

蓋シ夫レ万物ノ名、皆上世ヨリ起レリ。上世ノ民、其ノ淳粋精明ノ智ヲ以テ、物ノ情ヲ観ルニ、理ヲ窮メ、性ヲ尽シテ、之レヲ象ルニ、声気ヲ以テス。夫レ然ル後ニ、万名出ヅ。名出テ而シテ後ニ、文字興ル。文字ナル者、其ノ名ヲ通ズル所以・・・・・・是ノ故ニ、字ハ未ダ尽スコト非ザル也トイエドモ、名物ハ本ヅクナリ[11]

淇園の〈開物〉という方法は、このように〈声〉そのものに暗示された意味を〈開く〉ことを試みるのだが、重要なのは、淇園は〈声〉という存在を〈神気〉という精神的作用が表出したものと捉えていることである。

其の言語の言ふ處は、並に皆其の物の名にて、其の物の名始めて作れるは、其の物の実の己が神気に触れ覚ゆるさまを感じ識りて、其の感じ識れるさまを、其の音聲を以て形容し出して其の名とせるものなり[12]

淇園は、このように内奥に隠された〈神気〉という精神的作用を通して、その「触れ覚ゆるさま」を感知するという心理的プロセスを経て、〈声〉は表出されるのだと説く。だから淇園は、この〈神気〉が天地に一貫して存在するが故に、この世界において〈声〉もまた存在していることを次のように述べている。

人ノ声音ハ、又其観感スルトコロノ、物ノ情態ニ隋ヒテ、ソレヲ形容シテ言フノ用ナル故ニ、此亦千万ノ変化トナレリ。サレバ声音ノ妙用ハ、其神気ノスブルトコロニ属セルモノニテ、其象自然ノ勢ニヨリテ、神気ヨリソレニ応感シ、其分々ニ応ズルノ声ヲ出セリ。是故ニ、心ハ神気ニヨリテ、其動ヲ作スコトヲ得。神気ハ声音ノ万別ニ乗リテ、其情ノ微至ヲ尽スコトヲ得ルコトナルニ、心ト声音トノ相於ケルハ、其中間ニ神気ヲ介シテ、直通ヲ得ベカラザルモノナリ[13]

さらに淇園における〈神気〉という概念は、心理に内在している〈神〉と〈気〉と連関させながら語られるものである。続けて淇園は、〈神気〉について以下のように説く。

本邦ノ人ノ平常日用ノ言語ヲ用ユルニ、思慮擬議ニ渉ラズシテ、大都皆言々節ニ中リ、其宜ニ協ヘルコトヲ得ル故ヲ明ラカニスベシ。凡ソ人ノ心中ニ動ク神気ハ、即チ天地間ノ神気ノ通ヒテ、人ノ心主ノ観感スルトコロノ、万象ノ変動ノ運為ヲ現シ、又因テ其心主ノ思擬ノ象ヲ作スコト為ル物ナル故ニ、其人々ノ心中ニ動クトコロノ、彼-我・屈-伸・出-入・往-来、千態万状、挙数ベカラザルモノナリ[14]

神、気ヲ使ヒ、気、形ニ就ク。気ハ其レ純和ニシテ、形ハ類ヲ以テ相応ズ。蓋シ神ハ気形ヲ統べ、而シテ動キテ以テ、和ニ至ル者ナリ。至和之道ハ、其ノ物必ズ先後有リ。其ノ用ニ必ズ次叙有リ。其ノ義、之レ起ル所ニ、必ズ彼我・主客之情有リ[15]

このように見れば、淇園の〈開物〉という方法は、独自の用語と概念による煩雑な論理から組み立てられているが、重要なのは淇園が「人心の分象」という問いを立てることで、言語における心理的な側面に着目したことであろう。その「人心の分象」を示した書物こそ『易経』である。淇園は自らの理論的テクストである『易原』の中で次のように述べている。

凡そ易の謂ふ所は、聖人天地日月を合す所以を、運行の道を象に相ひ推して、人心を興して、神を感観し、而してこれを思ひ、運動の用なる者を、この名を以て、これを易と曰ふ[16]

凡そ此れ八卦・九籌は、人心の所以を天地に分象する者なり。天地は万物の父母、万物は天地の子にして、故に八卦・九籌は、また万物に於いて分象するを以て用いるべし。唯だ是れは、人心の分象にこれ有らん[17]

このように淇園は、『易経』で示された八卦・九疇を「人心の分象」として捉える。つまり〈開物〉という方法は「人心の分象」の意味を把握するためのものであり、〈神気〉を介在させた「心主ノ思擬」を表出した事物としての〈声〉が有している表象をめぐる問題を解明することにある。

物、必ズ其ノ象有リ。象ナル者ハ、民心ヲ立テ、像スル所ノ者ナリ。之ヲ類スルニ声気ヲ以テスレバ、則チ写像ヲ得。其ノ像写シ得テ、然ル後、其ノ物喩スルコトヲ得。是ノ故ニ、言ハ声気ヲ合シテ以テ成ル者ナリ。其ノ用、万変窮マラズ。能ク万物ヲ象リ類スル者ナリ[18]

蓋シ字ハ、名ヨリ生ジ、名ハ声ヨリ出ヅ。是レ故ニ、字義ハ其実ヲ成ル所ニシテ、是ヲ物ト曰フ。物二民心在ルハ、其ノ象ヲ成スコトヲ、民因リテ之ヲ倣フ。以テ其ノ声物之類ハ、是レ故ニ之ヲ名ハ、声ナル者ニシテ、其ノ物之ヲ象ル所ニ存スル者ナリ[19]

このような淇園の思想を、櫻井進は「淇園は言語の本質を事物の客観的な表象ではなく、主観による事物認識という点に求めた」[20]と指摘しているが、まさしく淇園における思想的実践は、主観的主体に内在する心理の根源性を解くことにより、言語自体の根源性を解明することに繋がると考えたことである。それは、淇園自らが「心」の意味を次のように解釈していることからも分かるだろう。

心ハ神ニ於テ、其中ニ条理スルコト、而シテ以テ、物象ヲ箸シ含ム所ヲ称スルノ名也。其疇象ハ、其レ実ニ神ヲ道スルコト有リテ、条理而シテ以テ、体スル箸含ノ物ノ実ヲ紀スル象ノ類ト為ス也。又、臓ヲ心ト名ヅクルハ、神思条理ノ蔵ル所ヲ以テ、名ト為ス者也[21]

淇園は、「心」について、「神思条理ノ蔵ル所」と解釈しているが、その意味で淇園の〈開物〉とは、「心」の内奥に潜む「神思条理」を徹底的に〈開く〉ことを試みたものであると言えよう。これまで検討してきたように、淇園の思想的全体像を捉えるためには、テクストの内部に向きあいながら、自らテクストに沈潜していくような内在的読解の作業に没入せざるを得ない。しかしながら淇園の思想は、必ずしも全てが淇園独自のものではない。次節では、淇園の思想を強く規定していた、当時の韻学をめぐる思想的状況について考察を行う。それは淇園を取り巻いていた思想的周辺を見据えることにより、淇園が提唱した〈開物〉という思想をめぐる同時代性を再考する作業に繋がっていくと考えられるからである。

3.江戸思想における韻学―韻鏡論の周辺

本節では、淇園のテクストから離れ、淇園が先に見たような思想的方法を展開した歴史的背景を探るために、同時代の韻学をめぐる思想的状況について考察していく。なぜならば、淇園の〈開物〉という方法には、当時とりわけ隆盛していた『韻鏡』と呼ばれる音図集の解釈に基づいていたからである。淇園は次のように述べている。

夫レ開物ノ学、声ヲ尋ネテ意ヲ明ラカニシ、音ニ随テ義ヲ詮カニス。故ニ声音ヨリ之ヲ弁ヘルコト、寔ニ切要ト為ス。而シテ古義ニ通ズルヲ欲セバ、当ニ先ズ古音ニ求メルベシ。蓋シ周漢ノ音、李唐ノ音、尚、典刑ニ存胡ス。僧、七音ヲ鑑ミテ唐代ニ於テ作セバ。而シテ今ノ韻鏡ニシテ、其ノ胚膜ヲ承ケル者ナリ[22]

淇園はこのように、〈開物〉の方法とは、「声ヲ尋ネテ意ヲ明ラカ」にし、「音ニ随テ義ヲ詮カニス」ることだと述べている。その〈声〉をめぐる〈古義〉が示された物こそ、『韻鏡』と呼ばれる書物である。言い換えれば、皆川淇園の思想的方法は、『韻鏡』に依拠しながら、その書物に示された〈音韻〉についての解釈をひとつずつ積み重ねながら成立するものだと言えよう。この『韻鏡』という書物はそもそも何であろうか。以下にその概略を説明しておきたい。

『韻鏡』は、唐末期から五代十国時代にかけて成立した、四十三枚からなる音図集である。日本では中世の頃に輸入されたが、中国では原本が戦乱により消失してしまっている。輸入された当初は、真言宗の教学の内部でのみ行われ、『韻鏡』をめぐる解釈は秘伝とされていた。しかし室町時代になると、公家階層の人々が年号や人名の吉凶を占うために用いられるようになり、この時期を画期として、『韻鏡』は世俗化していく。さらに江戸時代に入ると、『韻鏡』をめぐる注釈が隆盛を極めた。それは主に人名判断などの占いをするための書物として『韻鏡』が扱われたからであった。この『韻鏡』をめぐる歴史を考察した先行研究としては、福永静哉や釘貫亨などによる研究が挙げられるが、かかる研究は、とりわけ〈日本語学史の発展〉という視座から構成されている[23]。本節はかかる研究状況についても念頭に置きながら、『韻鏡』をめぐる問題について論じていきたい。太宰春台(1680-1747)は、『経済録』(1729年刊)や『斥非』(1745年刊)の中で、『韻鏡』の爆発的な流布について、以下のように述べている。

又近世ノ俗ニ、名ニ吉凶有リトイヒテ、韻鏡ニテ反切スルコトヲ貴ブ。是ニ因テ反切シテ吉ナル字ヲ撰ブ故ニ、人ノ名多ク同ジ。……且吉凶ヲ云フニ因テ、一生ノ間ニ、幾度モ名ヲ改ムル者多シ。……願クハ上ヨリ令ヲ出シテ、韻鏡ニテ反切スルコトト、随意ニ名ヲ改ムルコトヲ厳禁セラルベシ。名ヲ反切スルコトハ、異国ハ勿論ナリ、日本ニテモ七八十年来ノコト也。是義理ヲ害シ、人ヲ愚スル大悪俗ナリ[24]

近時韻鏡の書、盛に世に行はる、則ち人名を反切するの事あり。其の法、人の二名なる者に於て、上の字を以て切母と為し、下の字を韻と為し、韻鏡に従ひて帰して一字を為す。因りて其の字の美悪を視る。美なれば則ち已む。悪なれば其の名を改む。……今日に在りては、王公より以下、庶人に至るまで、未だ反切せざるものあらざるなり[25]

春台が、「近時韻鏡の書、盛に世に行はる、則ち人名を反切することあり」と述べるように、江戸時代における『韻鏡』の流布をめぐる状況は、主に辻占い師などを担い手とした人名判断の流行という文脈で受容されていたことを示しているが、春台はそのような行為が起るのは、「韻鏡の韻鏡たる所以」を知らないことにあると嘆いている。春台は続けて言う。

苟も儒となりて、而して聖人の書を読み、中夏の道を聞く者にして、豈に宜く其の非を知らざるべけんや。如し其の非を知らざれば、是れ至愚なり。其の非を知りて、而して之れを為さば、是れ人を誑すなり。至愚は羞づべきなり。人を誑すは悪むべきなり。此に一あれば、以て儒と為すべからざるなり。噫、世の人名反切する者、亦何ぞ韻鏡の韻鏡たる所以を知らんや[26]

このように春台は、「韻鏡の韻鏡たる所以」を知らないまま、『韻鏡』という書物が単なる占いを行うためのツールとしてのみ使用されている現状について批判している。しかしそのことは逆に言えば、春台は「韻鏡の韻鏡たる所以」を知っていたとも言えるだろう。「韻鏡の韻鏡たる所以」とは何か。春台から見れば、『韻鏡』とは〈華音〉を学習するための基本的な書物であった。それこそ、春台が語る「韻鏡の韻鏡たる所以」であろう。春台は言う。

韻鏡ハ先ヅ須ク華音ヲ学ブニハ音ヲ学ブベシ。而シテ之ヲ習ヘバ然ルニ四聲ハ明ラカニテ可也。七音ヲ辧フベキ也。内外開合凡百ノ呼法ヲ悉ク分別スベキ也。夫レ然ル後ニ、以テ韻学ヲ講ズベキ也[27]

このように『韻鏡』は、徂徠学以降における儒者たちのあいだで、〈華音〉を学ぶための書物として受容されていたことを春台の言葉は示していよう。淇園もまた、徂徠学以降の江戸儒学をめぐる思想的文脈を意識せざるを得なかったのであり、その思想的文脈を考えなければ、淇園の思想について見誤ることにもなろう。同時代において『韻鏡』注釈の大成者として知られるのが、文雄(17001763)である。文雄の韻鏡論は、儒者だけで膾炙されることなく、同時代の知識人階層の人々に広く知られたものであった。例えば、本居宣長17301801)は、文雄について次のように評している。

 無相(文雄のこと―筆者注)といひしほうしの、非出定といふ書をあらはして、此出定をやぶりたれど、そはたゞおのが道を、たやすくいへることをにくみて、ひたぶるに大声を出して、のゝしりたるのみにて、一くだりだに、よく破りえたることは見えず、むげにいふかひなき物也、さるは音韻のまなびに、名高き僧なるを、ほとけぶみのすぢは、うとかりしと見えたり[28]

文雄の略記を簡単に述べると、1700(元禄13)年に丹波国に生まれている。14歳に玉泉寺というところで剃髪し得度した後、京都の浄土真宗大谷派にあたる了蓮寺で学んでいる。若くして江戸に遊学し、宗学のかたわらで、太宰春台から華音を学んでおり、江戸で数年間研鑽を重ねたのち西帰し、1744(延享元)年には、『韻鏡』の注釈書である『磨光韻鏡』を刊行している。先述したが、文雄の韻鏡論は広く読まれたものであった。文雄の『韻鏡』解釈が重要なのは、文雄は『韻鏡』を〈音韻ノ符〉として捉え、〈文字〉と〈音声〉の相関性を考えるためには、『韻鏡』しかないと考えていたことである。

韻鏡ハ、音韻ノ譜ナリ。夫レ音韻ノ譜有ルヤ、猶ホ方圓ノ規矩有リ。規矩有リテ、而シテ后ニ方圓ヲ正スニ、譜有リテ而シテ后ニ音韻調フコト、其レ焉ゾ之ニ由ラザレバ、蓋シ韻学ヲ講ゼランヤ[29]

韻トハ按ニ、三才判レテ、三籟備ル。自然ノ音韻、爾シテ其レ人ニ在ルナリ。情ハ内ニ動テ、外ニ形ハル、之ヲ声ト謂フ。声ハ文章ヲ成ス、之ヲ音ト謂フ。音ヲ和調スル、之ヲ韻ト謂フ。……韻ナルハ、之ヲ文字ニ寓ス。然レバ文字ハ、音韻ノ符ナリ[30]

文雄において、『韻鏡』が重要なのは、「情ハ内ニ動テ、外ニ形」れた〈声〉の心的イメージが、〈文字〉によって仮託しているからである。さらに文雄は〈声〉に内在化されている意味が『韻鏡』には隠されていると考えていた。文雄は『韻鏡』に示された音図を見ることで、「音ノ義」を探ることの重要性を次のように説いている。

韻鏡ト題名セルハ、音韻明鏡ノ意ナリ。韻ノ字ハ音ニ从フ。員ノ聲ニテ六書ノ中ニ諧声ノ字ナリ。音ノ類ナレハ、韻モ即チ音ノ義アリ。故ニ韻ノ一字ニ音韻ノ義ヲ具足セルナリ[31]

このような文雄による『韻鏡』に対する考え方は、淇園が捉えていた〈声〉をめぐる問題と同じ視座に依拠していたと考えられる。ここでは考察する余地はないが、江戸後期に出現する〈言霊音義〉派と呼ばれる国学者たちは、『韻鏡』を参照しながら、〈声〉に内在化された意味性という問題を、和文脈に置き換える形で新たに〈声〉の問題を再構成していく。その意味で、文雄の『韻鏡』解釈の問題は、より深く考察しなければならない課題であるが、ここでは指摘だけに留めておきたい。話を戻すと、文雄の『韻鏡』解釈は、先に述べたように、同時代における〈華音〉の習熟という文脈から理解しなければならない。文雄は次のように述べている。

故ニ韻鏡ヲ治メント欲スル者、先ヅ須ク華音ヲ学ブベシ。……今ノ韻鏡ヲ治メル徒ニ、反切ノ法ヲ知リ、反切スル所以ヲ知ラズ。亦安ソ韻鏡ノ韻鏡タル所以ヲ知ランヤ。此レヲ他ニ無クシテ華音ヲ学バザル故也[32]

このように文雄は、『韻鏡』という書物を〈華音〉の習熟において必須の書物として捉えている。なぜなら文雄によれば『韻鏡』とは、正しい漢字の〈音〉を伝えたものだからである。だから、現存する漢字で誤った〈音〉の表記があったとしても、古来からの正しい漢字の〈音〉は、『韻鏡』に全て提示されているとし、そのことを文雄は次のように説いている。

韻鏡ヲ用フルコトハ、一部ノ韻書ト合会シテ、読書ノ間、謬音ヲ正スベシ。……世人億兆謬リ読ムトイエドモ、其ノ非ナリト云フコトヲ知ルハ、唯韻鏡ノミナリ。漢音ヲ用テ儒書ヲ読ム人ナラバ、一々ノ音ヲ韻会ニ考ヘテ、韻鏡ニ移シ、其音ノ是非ヲ正シ……思ノ外ニ今マデ久シク読ミ来レル音ニ謬リアルコトヲ知リ、改メズンバ、学者ノ恥辱ナルコトヲ弁へ、韻鏡ノ用フヘキ、斯書ノ妙要ナル[33]

故に文雄は、『韻鏡』には〈華音〉の正しい「符節」が示されていることを語るのである。さらに、『韻鏡』によって〈華音〉は正しく習熟されることを次のように重ねて語る。

凡ソ字音ト呼ブモノ華夷ノ諸邦ト同ジカラス。古今ノ傳習スルノ音ハ漢呉ノ二音ナリ。漢音ハ儒家ノ用ヒル所トシ、呉音ハ佛家ノ用ヒル所トス。竊ニ按スルニ、二音昔日華人ノ傳フル所ニテ應スト雖モ、而シテ四聲ハ正シク五音ニ分ツル。今ニ於テハ展轉訛ヲ成シ、四聲殽乱シ、七音乗舛ス。清濁交誤リ。軽重分タラズ。之ヲ韻鏡ニ鑑ミレハ、則チ正律ニ協ス訛轉自ラ見ユ。渾然タル國音ナリ。故ニ二音共ニ和音ト称ス。近世中華ノ正音傳習ス。当ニ華音ト称スベキハ俗ニ唐音ト称ス其音ナリ。……之ヲ韻鏡ニ正スニ即チ符節ヲ合スルガ如シ。故ニ音韻ヲ学ブ者、必ズ華音ニ由ラベカラズ[34]

このように見れば、文雄における韻鏡論は、古文辞学における〈華音〉をめぐる思想的関心に呼応しながら形成されたものであると考えることが出来る。しかしながら、文雄の思想的重要性は、古文辞学が見出した〈華音〉の議論を『韻鏡』という書物に組み込むことで、〈音韻〉をめぐる問題を、儒者国学者たちによって新たに認識されるような思想的契機を作ったことにあると考えられる。その意味で江戸思想史研究の中でも、韻学をめぐる問題は再考すべき課題の一つであろう。ここまで韻学を検討してきたが、次は韻学から離れ、淇園のもう一つの思想的核心でもある易学の問題について眼を向けてみたい。従来の研究では淇園の易学思想をめぐる評価については、その〈孤絶性〉が強調されてきたが、淇園が依拠している〈象数〉論と呼ばれる易学の立場は、むしろ前近代の東アジアにおける思想史的文脈の中では、広範になされていた議論であった。次節では淇園の易学的世界に即しながら、〈象数〉論という思想について考察する。

4.皆川淇園と〈象数〉論―その易学的世界

 本節では、皆川淇園の易学思想について考察するが、その前提として、江戸時代における易占をめぐる状況についても触れておく必要があるだろう。江戸時代における易占をめぐる実態については、益子勝による研究が挙げられる[35]。益子によれば、江戸時代には既に寛永年間より、明代の易学書が船舶書目として渡来し、和刻本の刊行も盛んに行われた。しかし、『易経』の難解な注釈書よりも、雑占の実用書の刊行の方が多かったようである。淇園が「後世の人の八卦を卜筮の用ばかりなりと心得たる浅はかなる見」[36]とし、『易経』という書物をかかる「卜筮の用」とは峻別し、「聖人の道」が記されたものとして理解したことは既に述べたが、このように淇園が語るのは、かかる時代的状況を踏まえた発言であろう。しかしながら、淇園の易学思想が理解されていない理由としては、中国思想史の分野ではすでに膨大な易学思想に関する先行研究の蓄積が行われているのに対し、江戸思想史における易学思想の位置付けは、現在でも未踏の領域であることも関係しているように思われる[37]。とりわけ淇園の思想の中でも易学思想の問題は、最も難解であり、先行研究でも、内部構造をめぐる解釈に留まっているのが現状である。そのような自らの易学思想の視座を、淇園は次のように語っている。

易ニ動有リ、静有リ。変有リ。通有リ。変ナル者ハ開ナリ。通ナル者ハ合ナリ。・・・・・・故ニ合、即チ是レ通ナリ。而シテ、変ノ動ニ依ルト通ノ静ニ依ルトハ、分跨ヲ為ス。常ヲ近数トシ、分跨ヲ遠数ト為ス[38]

このように、淇園の易学思想は、易における八卦の象徴性を〈数〉の法則性から読み解く立場であり、これは〈象数〉論と呼ばれるものである。〈象数〉論に代表されるように、易学において〈数〉をめぐる議論は、中国術数学とも関わる問題でもあった。川原秀城が指摘するように、術数学が天文暦算の問題と深く関わっているのと同じように、易学もまた『易経』で提示されたその宇宙原理を、易占で示される八卦の象徴性から読み解いていく学問である。つまり〈象数〉論とは、天文暦算の世界や、易学の八卦の中に〈数〉の法則性を見出していく思想的視座のことである。この意味において術数学と易学は、相互に二つの思考が緊密に連関しながら、一つの思考として存在していたと考えるべきであろう[39]。このような淇園の〈象数〉論を示したものが、九疇説と呼ばれるものである。

九疇ハ、人ノ天地万物ニ意測スル所ノ定範ナリ。尚書ニ、天、洪範九疇ヲ禹二賜ヒ、禹コレヲ用ヒテ以テ水土ヲ治スルヲ言フト伝フ。・・・・・・当時ノ賢聖、因リテ又其ノ九ヲ以テ範ト為ルノ義ヲ推広メ、洪範ノ書ヲ作リ、殷末ニ至リテ微子以テコレヲ周ノ武王ニ授ク。然レドモ所謂九疇ナル者、其ノ実ハ亦タ八卦二原シテ出ズ。而シテ八卦ノ画ハ、聖人コレヲ人ノ仰ギテ天ヲ観、俯シテ地ヲ察シ情理ヲ取レリ[40]

淇園は、「九疇ハ、人ノ天地万物ニ意測スル定範ナリ」と述べるように、〈九疇〉というものを天地を貫く原理として見出していた。この〈九疇〉は、『書経』の「洪範」篇において言及されているもので、天下を統治するための基本原理を九つの範疇(五行・五時・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極)のことである。この詳細については本論から逸脱するため、詳しく分析することはしない。しかし、このように見れば、淇園は天地の原理とは、〈数〉の原理でもあると考えていたのは明らかであろう。続けて淇園は次のように述べる。

天地ノ中ニ合エバ、則チ上下天地ニ感ズ。天地ニ感ジテ以テ常ト為ルハ、而シテ人心ハ神明ノ宅スル所ナリ。是ヲ以テ、人ノ天地ヲ観察シ、斯ノ徳乃チ其ノ中ニ見ハル。蓋シ、観察シテ感ズレバ、則チ其ノ意ヲコレ二識ル。コレヲ識レバ、則チ象ヲ成ス。象ニ分有リ。故ニ数乃チ生ズ。是レ故ニ、疇九有レバ、則チ以テ天地ヲ尽スニ足ル。而シテ我ト物トハ、亦天地ノ類ナル者ナリ。是ヲ以テ、其ノ数九ヲ以テスレバ、則チ亦コレヲ尽セリ[41]

しかし、『易経』で示された宇宙的原理を〈数〉における法則性と対応させながら考えるという、淇園の〈象数〉論をめぐる議論は、太宰春台にも散見されるものである。春台は晩年において易学に傾倒しており、『経済録』のなかで次のように述べている。

伏儀此数ニ因テ八卦ヲ作リ、八卦ヲ重テ六十四卦トナシテ、天地万物ノ理ヲ尽シタマヘリ。凡天地万物、何ニテモ数ナキ者ハナシ。人ノ上ニテ言ヘバ、生ルヽヨリ死スル迄、禍福升沈皆数アリ、万物ヲ言ヘバ、鳥獣魚鼈ノ生死、草木ノ栄枯皆数アリ。……一物一物ニ皆定数アリ、陶家モ是ヲ知ラザリテ、売ル者モ買フ者モ是ヲ知ラズ。是一物ノ上ニ具ハレル数ニテ、天地万物自然ノ数ナリ。此数ハ神聖ノ力ニテモ、移変スルコト能ハズ[42]

太宰春台における易学への傾倒については、考察する余地はないが、春台のかかる言及が示唆しているのは、江戸時代の儒家における思想的文脈から易学思想を捉え直す必要性であろう。淇園はまた「天地自然の数」の運動性が、同時に〈声〉の運動性でもあるとし、次のように述べている。

開物ノ法ハ、其ノ開キ欲スル所ノ声物ヲ審ラカニシ、而シテ先ヅ其部ヲ用テ之ヲ立テ、以テ其ノ名物ノ大意之レ在ル所ヲ為シ、次ニ其ノ勢ヲ用ヒテ之ニ乗ジ、次ニ四終ヲ用ヒテ之ニ乗ズ。勢ハ名物・彼我往来ノ情ヲ為シ、終ニ其情ノ相会・交際・深浅ノ分ヲ為ス……其ノ名物ノ彼我・動静ノ情状ヲ為シ、以テ上四物ハ是レ其ノ名物全体ノ景象ト為ス。其ノ動静・変通ヲ以テ、其ノ序ニ順ヒ、以テ之ヲ数ト謂フナリ[43]

淇園は、「見るべし、字書の訓詁は率ね真詮にあらざるなり。これをその声の象数に求むるは上なり」[44]と『問学挙要』のなかで述べているが、この意味で〈象数〉論とは、〈声〉と〈数〉の相関性に根ざした思考であった。淇園はまた次のように語る。

文字ハ義ヲ載スルノ器ナリ。文字ノ声音ハ其義ノ以テ人心ニ符スル所ノ根帯ナリ。其根帯タルトコロノ故ハ、初ニモ段々ニ云タルコトク、天地自然ノ数ニテ、人コレヲ其声音ニ発スルモノナリ。……其感スルコトハ、其中天地一定ノ至理其中ニ存スレハナリ[45]

このように見れば、淇園の〈象数〉論とは、〈数〉の普遍性こそが、同時に〈声〉の普遍性でもあると説く立場であると考えられるだろう。さらに重要なのは、淇園における〈象数〉論のあり方は、「この七部の説、また通雅に見ゆ」[46]と言及しているように、淇園も読んでいた方以智(16111671)の『通雅』(1643年成立)にも見られるものである。その意味において、淇園の思想は、明末清初期における〈声〉をめぐる新たな思想的動向とも深く関わっていた。方以智は次のように語る。

一を極めて参を両して、而して律暦は之を呼吸し身に符す。必ず数を以て、而して後に用ひず。然るに天地より人は生まれ、此れ秩序に適ふ。易は豈に天下の物を窮めんとし、数を以て合し、而る後に作らんとするか。自然の理は数より吻合し、而して至大と至微に違ひは無きなり。人と天地は万物より同根にして、而して心声を神明の幾とするは、数を言はんとすれば不可なり。而して数と応節し、即ち其の数にして物を度るべし[47]

平田昌司によれば、明末清初期において、易学における〈象数〉論が、韻学と結節しながら、新たな〈言語〉をめぐるあり方を模索するような動向が活発化したことを指摘している[48]。方以智は、その中でも易学を自らの家学としており、その思想も〈象数〉論的な思考に根差したものであった[49]。方以智における〈象数〉論とは、〈声〉と〈数〉の相関性から、さらに〈声〉をめぐる循環的と通時的な性格を捉えることにある。

世変して遠きなり。字変じて則ち形易し。音変じて転ずる者なるは、変極まりて本に反る。且く以て今日の音は唐宋を微し、両漢を微し、三代を微す。古人に多く方言を引き以て経伝を左証す。方言は、自然の気なり。音を以て古義を通ずは之に原くなり[50]

字は字にして皆な備わり、其の次に先天の韻を惟う。……韻を旋り真青するは、正に春秋二分の候に当る。故に其の声は和平にして、自然に相応じ、此れを以て調唱し、其れ竅に自りて階す[51]

このように見れば、〈象数〉論のあり方は、〈声〉の循環的な性格を捉えることにより、新たに〈言語〉をめぐる問題を構成していくものであったと言えるだろう。方以智の議論に呼応するかのように、淇園もまた、〈声〉をめぐる循環的な性格を語るのである。

今ノ天地万物ハ、即チ古ノ天地万物ナリ。慈二アル天地万物ハ、即チ彼二アル万物ナリ。其運ハ殊ルトイエドモ、其気ハ同ジナルコトヲ知ルベシ。其気同ジ事ナレバ、其声音ノ理モ殊ナルベキコト所謂ナシ。・・・・・・其感ズル所二隋テ其気ヲ知リ、其気二因テ其声音発スル事、古今四方ニ何ゾ差フコトアラン[52]

このような淇園の〈象数〉論は、方以智と同じく、時が変わっても、根源的には循環した性格が存在するものとして捉える。そのように考えるならば、易学と韻学との交差という淇園が持つ思想的な意味も新たに再考できるのではなかろうか。また淇園は、明末清初期において新たに提起された〈古音〉をめぐる問題とも深く関わっていた。最後にこの問題について考察を試みる。

5.皆川淇園の〈古音〉批判―明末清初思想の〈痕跡〉について

三代六経の音。其の伝を失するにや久しきかな。其の文は之に世に存する者、多くは後人に通ずる能わざる所にして。以て其れ通ずこと能はず。而して転以て今世の音に転じ之を改める。是に於いて改経の病有ることは、始めて唐より皇に尚書を改めることにして明らかなり。而しか後人は往往にして之を倣い、然るに旧きを曰ひて、今を改めんとするは、則ち其れ文に本くこと猶在り。……則ち古人の音亡びて、而して文もまた亡ぶ。此れ尤も嘆くべき者なり[53]

宇は猶宙の如きなり。宙は猶宇の如きなり。故に今言を以て古言を眎、古言を以て今言を眎れば、均しくこれ朱離鴃舌なるかな。科斗と貝多と何ぞ択ばん。世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて遷る。道の明らかならざるは、職として是にこれ由る[54]

上に挙げたのは、顧炎武(1613-1682)が、『音学五書』において、中国古来における〈古言〉が現在において滅びたことを嘆いたもの。そして、もう一つは、荻生徂徠16661728)が、〈古言〉と〈今言〉が時間的な隔離があるものとして、認識していたことを示すものである。顧炎武によって、いわゆる〈清朝考証学〉は始まったという指摘は、数多くの先行研究の中で既に言及されている[55]。さらに徂徠における〈古言〉をめぐる視座が、その波紋を呼んだことも周知の通りであろう。しかし、淇園が〈声〉を循環的な性格を帯びた存在と捉える限り、顧炎武がなした〈古音〉の発見や、古文辞学における思想的作業は、むしろ批判されるべきものであった。その意味で淇園は、明末清初思想において見出された〈古音〉をめぐる問題について、江戸思想の側から受け止めた思想家であり、〈近世東アジア思想圏〉のあり方を考えるための契機ともなりうると思われる。本節では、本稿の最後として、淇園における明末清初に見出された〈声〉をめぐる問題への捉え方について考察してみたい。淇園は顧炎武を以下のように批判している。

詩は、呉才老が叶韻を論じてより、朱考亭のその説を取りて、以て詩註に入る。明末の顧炎武が韻学五書(ママ)に至りて、乃ち遂に協韻なきの説有り。清の毛奇齢、因りて古今通韻を作りて、以て顧の誤謬を斥く。……しかしてこの七部の説、また通雅に見ゆ。……余また考ふ。周の詩三百篇、韻を用ひる法は、乃ち皆同声相応ずるの法なり。……明の顧氏に至りて、乃ちその本音を併せてこれを易えんと欲す。殊に知らず、声音の道に於ける、その関係すること甚だ大なることを。顧氏が説をして盛んに行はしめば、則ち道息むに幾し。頼りて毛氏有りて弁じてこれを闢き、しかして後、古音の亡びざるを得たり。その後学に庇あり。謂ふべし、その功浅鮮にあらずと[56]

淇園は、このように「殊に知らず、声音の道に於ける、その関係すること甚だ大なることを。顧氏が説をして盛んに行はしめば、則ち道息むに幾し」と、顧炎武が〈古音〉の問題を提起したことで、「声音の道」が乱れたことを批判するが、注目すべきなのは、このような淇園の顧炎武への批判は、古文辞学に対する批判とも通底していることである。

古今、言に殊なる、人皆これを知る。然れども、秦漢以前を以て、概してこれを古へと称し、混同して別なき者に至るは、則ち疎なり。……則ち見るべし。周人已に自ら、その古言を難んずるなり。西漢また文武の世を去ること、更に隔遠を加ふ。……即ち古言の通じ難きこと、必ずまた倍甚だしからん。……西漢の人、その古言に昧き者、亦已に明かなり。然らば即ち秦漢以前、豈に古へを以て概称し、混同して別なかるべけんや[57]

このように見れば、淇園が顧炎武を批判したのも、古文辞学と同様に、その〈作為性〉を看取したからに他ならない。その意味で淇園は、その〈古音〉をめぐる問題を古文辞学と同じ地平で見ていたと言える。これまでの先行研究では、淇園の徂徠学批判については取り上げられることが多かったが、その背後にあったのは、明末清初において新たに見出された〈古音〉の問題が強く刻印されていたのである。淇園は、そもそも〈声〉とは、「自然ニ声ヲ作スモノ」と考えていた。

総シテ生民ノ間ニ我カ意ヲ彼ニ諭シ、又彼カ意ヲ我ニ知ルハ皆声音ノ用ニ非サルコトナシ。……禽獣ニハ人ノ如キ智慮ハ無ケレドモ其声ヲ聞テ其類ハ皆相感通スルコトハ、是其色ニ其物相感ナル自然ノ義ヲ具セル故ニ、教ヘズシテ知リ習ズシテ覚リ、又思慮モ工夫モナク、自然ニ此声ヲ作スモノナリ。サレバ人ノ声音モヤハリ其理ハ同ジコトナリ[58]

このような淇園における〈声〉をめぐる視座は、古文辞学や顧炎武の議論のように、〈古言〉と〈今言〉の隔離という議論とは異なるのは明らかであろう。さらに淇園は顧炎武批判の文脈において、顧炎武が『詩経』には、現在の音と相応する「協韻」がないとした言葉に対して、次のように批判している。

按ズルニ詩ニ協韻アリト云フノ説、皆事理ニ達セサルノ言ナリ。詩ハ古ノ歌ヒモノ孔子ヨリ始メテ刪述アリテ、此ヲ経ニ列シ給ヘル様ニモ見ヘタリ。……夫歌フ者ハ人ヲシテ其声ヲ聞キテ其義ニ相感動セシムル為用ナリ。……今人ノ稍〃詩ヲ作ルコトヲ鮮スル者モ能ク声律ヲ相調シテ、シカモ能其意ヲ言ヒ著ワス。況ヤ古ノ人ノ其歌ヲ制スルニ、若シ其声響ヲヨシトセハ、初ヨリ其字音ヲ相協シテ之ヲ作ルベシ。何歌フ時ニ至リテ其声ヲ変換スルコトヲ待タン[59]

このように見れば、淇園の〈古音〉批判は、〈声〉をめぐる循環性という視座から構成されているのは、明らかであろう。しかしながら重要なのは、その意味において、かかる淇園の思想は、明末清初期に見出された〈古言〉をめぐる問題を、自らの思想的課題として認識していたことであり、淇園のテクストには、その〈痕跡〉が見られることである。山口久和は、明代における〈復古〉という問題を、明代の文学史と思想史との〈相同性〉という視点から理解する必要性を指摘している[60]。本稿ではこれを十分に考察することはできないが、その意味で、淇園における〈古音〉批判も、明代の文学史や思想史的状況とも接点があったと考えるべきだろう。なぜなら淇園は、〈古音〉批判の文脈において、明末清初期に活躍した毛奇齢(16231716)の議論を参照にしているからである[61]

余家ニ清人毛奇齢カ著ワス古今通韻ノ一書アリ。頗ル具眼ノ説多シ。陳第・顧亭林カ古音ヲ言ヘルヲ破リテ論ヲ立ツ[62]

淇園が挙げている毛奇齢の『古今通韻』は、顧炎武の〈古音〉論を批判したものであり、毛奇齢は、次のように顧炎武を批判している。

詩本音の一書に、堅く「東」・「蒸」の通ぜざること、「侵」・「覃」の説を執る。其れ相い通じる字は皆な古音と曰ふ。「某」は後人に「某」の韻を入れて誤りと。……但し、豈に方に音は之れと同じからずことを云ふは、此の如きにては、則ち何を以て訓むべきとし、且つ何を以て詩を註すべきとし、且つ何を以て韻を論ぜんとすべきか[63]

このような毛奇齢による批判は、淇園と同じように、〈言語〉における循環性から構成された視座である。続けて言う。

其れ註せずとも翻切し、通じて以て皆叶ひ、正音無くとも、意に随ひて読むべきなり[64]

このように分析してみると、淇園は明末清初思想のテクストを参照にしながら、自らのテクストも同時に織り成していたことが明らかになろう。従来の研究でなされてきた淇園における古文辞学批判も、むしろ明末清初において見出された〈古音〉をめぐる問題が最初にあったと考えられる。その意味で、江戸思想史という文脈のみで考えると、淇園における思想的視座の意味も見落としてしまうのではなかろうか。そのためには、テクストに表れた〈痕跡〉について考える作業が必要になると思われる。

6.むすびにかえて

吾が性佞媚を喜ばず。……人、我佻にして薄と謗る。人と施報、従来に的的然として必ず効し、拘拘然として必ず従うこと、軍幕の将士、官府の吏隷の号令・約束・発微、期会においてする者を喜ばず。故に人は往々にして、我を簡傲とす。言語応酬の間、吾が心、時に動悸し、自ら斂束、省繹し、状、屡々楽しまざる者に類せり。故にその知らざる者は、見て不遜と為す。詩書を読んで文義を理む。すなわち常に好んで深く捜り、極め討ねて毫末に入り、奥賾を極む。幻眇微忽にして、口言うこと能わざる者に至りて、然る後に止む[65]

淇園は自らの学問的態度を、「詩書を読んで文義を理む。すなわち常に好んで深く捜り、極め討ねて毫末に入り、奥賾を極む」と述べるように、テクストに沈潜しながら、独自の思想的世界を織り成すような性格の思想家であった。確かに淇園の思想を分析するとき、それが織り成す思想を内部構造の側面から明らかにする必要はあると思われる。しかしながら、とりわけ本稿が試みたのは、淇園が織り成した易学と韻学とを交差させていく思想を読み解くとき、そのテクストの周辺に位置する同時代の韻学や易学をめぐる思想的状況にも光を照らすことであった。それは、これまでの淇園の思想をめぐる「思想史からの切断」という言及のあり方を見直し、一歩進めるような形での読解可能性を模索する試みでもある。また、本稿で分析したように、一見難解な淇園の思想を、明末清初思想の問題とも照合させて考えるのであれば、江戸儒学も明末清初思想と同じ思想的地平を共有しており、それも遠くない位置にいたといえる。皆川淇園はもちろん古文辞学への応答という形で、荻生徂徠の古文辞学を反駁したが、むしろそれは明末清初期において見出された〈古音〉を視軸に置いた言語論に対する淇園自らの疑念でもある。その意味において、淇園における〈古音〉への批判的言説が有した意味を考察することは、〈近世東アジア思想圏〉をいかに捉え直すかという問題とも関係したものであろう。このように明末清初期に見出された〈古音〉の問題を捉えるならば、それを和文脈の世界に置き換えていく、本居宣長による〈漢意〉批判が出現する思想史的な意味も再考できるのではなかろうか。そのことについて、江戸思想史における歌論の世界や詩文論の側面から明らかにすることが、今後の課題になると思われる。甚だ拙い本稿ではあるが、このあたりで筆を擱くことにしたい。

【参考文献】

 〈引用史料〉

 顧炎武「音学五書」(1667成立)、王雲五主編『音学五書』、台湾商務印書館、1968年。

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 ―――「問学挙要」(1774)中村幸彦『近世後期儒家集』日本思想大系37巻所収、1972年。

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 ―――「名疇」(1788)国立国会図書館蔵。

 ―――「淇園文集」(1799)、高橋博巳編『淇園詩文集』所収、ぺりかん社1986年。

 ―――「易学開物」(成立年不詳)、国立国会図書館蔵。

 ―――「易学階梯」(成立年不詳)、三枝博音『日本哲学全書』第九巻所収、1936年。

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 ―――「韻鏡指要録」(1773)、文雄『韻鏡指要録・翻切伐柯篇』、勉誠社文庫911981年。

 ―――「磨光韻鏡余論」(1807)、文雄『磨光韻鏡余論』、勉誠社文庫931981年。

 太宰春台「経済録」(1729)瀧本誠一編『日本経済大典』第九巻所収、明治文献、1967年。

 ―――「斥非」(1745)、池田四郎次郎編『日本詩話叢書』第三巻所収、文会堂書店、1924年。

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〈研究文献〉

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 小野和子(1994)『明季党社考―東林党と復社』、同朋社出版。

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 ―――(1997)「数と象―皇極経世書小史」、『中国―社会と文化』12号。

 片岡龍(2001)「十七世紀の学術思潮と荻生徂徠」、『中国―社会と文化』16号。

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 坂出祥伸(1970)「方以智の思想―質測と通幾をめぐって―」、藪内清・吉田光邦編『明清時代の科学技術史』、京都大学人文科学研究所。

 馮錦栄(1987)「方以智の思想―方氏象数学への思索―」、『中国思想史研究』10号。

 佐々木愛(1997)「毛奇齢の思想遍歴―明末の学風と清初期経学―」、『東洋史研究』562号。

 蔡振豊(2011)陽明学と明代中後期における三教論の展開」、松野敏之訳、馬淵昌也編『東アジアの陽明学―接触・流通・変容―』所収、東方書店

 高橋博巳(1988)『京都藝苑のネットワーク―』、ぺりかん社

 ―――(1991)『江戸のバロック―徂徠学の周辺』、ぺりかん社

 田尻祐一郎・疋田祐助(1995)『太宰春台・服部南郭』、明徳出版社。

 土田健次郎(2002)『道学の形成』、創文社

 中村春作・櫻井進(1986)皆川淇園・大田錦城』明徳出版社。

 櫻井進(1981)「『解釈』の成立―皆川淇園の開物学について」、『日本思想史学』14号。

 ―――(1983)皆川淇園の文学論」、『待兼山論叢』17号。

 清水教好(2006)「尾藤二洲の思想世界―明末清初思想と武家社会の朱子学のはざま―」、『奈良史学』24号。

 中村幸彦(1972)「近世後期儒学界の動向」、『近世後期儒家集』所収。解説。

 野口武彦1993)『江戸思想史の地形』、ぺりかん社

 浜田秀(2000)皆川淇園論(一)」、『山辺道』44号。

 ――― (2002)皆川淇園論(二)」、『山辺道』46号。

 肱岡泰典(1996)皆川淇園の開物学」、『中国研究集刊』寒号。

 福永静哉(1992)『近世韻鏡研究史』、風間書房

 平田昌司(1979)「『審音』と『象数』」、『均社論叢』9号。

 益子勝(2002)「江戸時代に於ける明代卜占書の受容について」、『二松』16集。

 水口拓壽(2010)「四庫全書における術数学の地位―その構成原理と存在意義について」、『東方宗教』115号。

 山口久和(1985)「明代復古派詩説の思想的意義」。『大阪市立大学文学部人文研究』第37巻。

 (大韓民国高麗大学校日本研究センター編『日本研究』第19号。ソウル、2013年。pp177-pp203)

 

[1]皆川淇園「太田玄貞に与ふる書」、高橋博巳編(1988)『淇園詩文集』所収、ぺりかん社p47

[2]皆川淇園「磨光韻鏡序」、前掲『淇園詩文集』、p143

[3]皆川淇園墓誌銘。門人平戸城壱岐守源清撰」。淇園会編(1908)『鴻儒皆川淇園』、淇園会。p62

[4]中村幸彦1972)「近世後期儒学界の動向」、中村幸彦・岡田武彦編『日本思想大系47 近世後期儒家集』所収、岩波書店

[5]中村春作・櫻井進(1986)皆川淇園・太田錦城』、明徳出版社。p40

[6]浜田秀(2000)皆川淇園論(一)」。『山辺道』44号。

[7]皆川淇園「易学階梯」。三枝博音編(1936)『日本哲学全書』第九巻所収。p396-p397

[8]前掲「易学階梯」。p399

[9]  同前。p394

[10]皆川淇園「名疇」。序説。二丁オ-二丁ウ。国立国会図書館所蔵。

[11]同前。「名疇」。序説。一丁オ。

[12]前掲。「易学階梯」。p399

[13]皆川淇園「助字詳解」。皆川淇園(1978)『助字詳解』、勉誠社文庫78p15

[14]同前。p14-p15

[15]皆川淇園「易学開物」。開物総論。四丁ウ。国立国会図書館所蔵。

[16]皆川淇園「易原」。二丁オ。国立国会図書館所蔵。

[17]同前。四丁ウ-五丁オ。

[18]前掲。「易学開物」。統述。一丁オ。

[19]同前。「易学開物」。開物総論。四丁ウ。

[20]櫻井進(1981)「「解釈」の成立―皆川淇園の「開物学」について」。『日本思想史学』14号。を参照。

[21]前掲。「名疇」。巻六。心。一丁オ。

[22]前掲。「易学開物」。訂正韻鏡説。十二丁オ。

[23]福永静哉(1992)『近世韻鏡研究史』。風間書房。釘貫亨(2007)『近世仮名遣いの研究―五十音図と古代日本語の発見』。名古屋大学出版会などを参照。

[24]太宰春台「経済録」。巻九。瀧本誠一編(1967)『日本経済大典』第九巻所収。p651

[25]太宰春台「斥非」。池田四郎次郎編(1924)『日本詩話叢書』第三巻所収。文会堂書店。p159

[26]同前。p160

[27]文雄「磨光韻鏡」。太宰春台序。文雄(1981)『磨光韻鏡』。勉誠社文庫90p7

[28]本居宣長「玉勝間」。巻八。「出定後語といふふみ」。大野晋編(1968)『本居宣長全集』第一巻所収。p244

[29]文雄「磨光韻鏡」。下巻。前掲。『磨光韻鏡』。p115

[30]文雄「磨光韻鏡余論」。上巻。文雄(1981)『磨光韻鏡余論』。勉誠社文庫93p36

[31]文雄「韻鏡指要録」。文雄(1981)『韻鏡指要録』。勉誠社文庫91p25

[32]前掲。「磨光韻鏡余論」。p41

[33]前掲。「韻鏡指要録」。p94

[34]前掲。「磨光韻鏡」。下巻。p126

[35]益子勝(2002)「江戸時代に於ける明代卜占書の受容について」。『二松』16集。

[36]前掲。「易学階梯」。p394

[37]中国思想史の分野から、易学思想を検討した最近の研究としては、吾妻重二(2009)『宋代思想の研究』。関西大学出版会。土田健次郎(2002)『道学の形成』。創文社などを参照。

[38]前掲。「易学開物」。遠近動静説。十六丁オ。

[39]川原秀城(1993)「術数学―中国の「計量的」科学」。『中国―社会と文化』8号。―――(1997)「数と象―皇極経世書小史」、『中国―社会と文化』12号などを参照。

[40]前掲。「名疇」。序説。四丁オ-四丁ウ。

[41]同前。「名疇」。序説。七丁オ。

[42]同前。p664-p665

[43]前掲。「易学開物」。開物総論。六丁オ。

[44]皆川淇園「問学挙要」。備資。前掲。『近世後期儒家集』所収。p82

[45]皆川淇園「均繇三十六則」。第八段。九丁ウ。国立国会図書館所蔵。

[46]前掲。「問学挙要」。p87

[47]方以智「通雅」。巻五十。切韻声原。侯外慮主編(1988)『方以智全書』。上海古籍出版社。p1514

[48]平田昌司1979)「「審音」と「象数」」。『均社論叢』9号。

[49]方以智の先行研究としては、馮錦栄(1987)「方以智の思想―方氏象数学への思索」。『中国思想史研究』10号などが挙げられる。また、方以智は、明清交替期に逃禅し、「三教一致」思想を深めた思想家としても言及がされている。詳しくは、荒木見悟(2000)『憂国烈火禅-禅僧覚浪道盛のたたかい』。研文出版などを参照。

[50]前掲。「通雅」。巻一。疑始。p79

[51]同前。「通雅」。巻五十。切韻声原。p1499

[52]前掲。「均繇三十六則」。第六段。八丁オ-八丁ウ。

[53]顧炎武「音学五書」。答李子徳書。王五雲編(1968)『音学五書』。p1

[54]荻生徂徠「学則」。第二則。島田虔次編(1973)『荻生徂徠全集』第一巻所収。みすず書房p74

[55]顧炎武の先行研究は数多いが、井上進1994)『顧炎武』。白帝社のみを挙げておく。

[56]前掲。「問学挙要」。備資。p87-p88

[57]同前。「問学挙要」。慎徴。p103

[58]前掲。「均繇三十六則」。第二段。二丁ウ-三丁オ。

[59]前掲。「均繇三十六則」。第三段。三丁ウ-四丁オ。

[60]山口久和(1985)「明代復古派詩説の思想的意義」。『大阪市立大学文学部人文研究』第37巻。

[61]毛奇齢については、佐々木愛(1997)「毛奇齢の思想遍歴―明末の学風と清初期経学―」、『東洋史研究』562号を参照。

[62]前掲。「均繇三十六則」。第三段。五丁オ。

[63]毛奇齢「古今通韻」。巻一。『景印文淵閣四庫全書』。経部242。小学類。p23

[64]同前。「古今通韻」。巻一。p25

[65]皆川淇園「清君錦越藩に赴くを送る序」。前掲。『淇園詩文集』所収。p18