歌における〈今〉の世と〈危機〉の言説ー『国歌八論』という思想空間

 

 

1.        問題への視座―「歌学史」が〈意図〉するもの

 本稿において、次のような問いを立てることは無駄であろうか。すなわち作者が、あるテクストの記述の〈始まり〉には、いかなる特権的な意味が付与されるのか。そして、作者はそれをどのように〈書き始める〉のか。本稿の主題は、言うまでもなく、『国歌八論』と呼ばれる歌学テクストである。しかしながら、『国歌八論』というテクストと、書記行為としての〈始まり〉には、どのように関連しているというのか。エクリチュールにおける〈始まり〉(beginnings)を考察するために、エドワード・サイードの『始まりの現象』を参照してみよう。

 つまり、始まりというのは基本的には、単純な直線的成就であるよりはむしろ、回帰と反復とを究極的に内意している活動であるということ、始まりや始まりの反復は歴史的なものであり、他方始原は神的なものであるということ、ひとつの始まりは、意図をもっているがゆえに、それ自体の方法を創造すると同時に、それ自体の方法でもあるということなどです。・・・・・・かくして、始まりの現象は根源的な厳しさを挫くよりは、それを確認し、また少なくともなんらかの革新が行われたことの、つまり事が〈すでに始まったこと〉の証拠を真なるものとして証明することになるのです*1

サイードが指摘しているのは、エクリチュールにおける〈始まり〉という現象は、「回帰」と「反復」であり、そしてそこには、つねに作者の〈意図〉が介在しているということである。ゆえにエクリチュールにおける〈始まり〉とは、つねに歴史的なものである。では、「歌学史」というエクリチュールの〈始まり〉は、いかなる意味をもつのか。「歌学史」の〈始まり〉。それはただ単に「歌学史」が最初に〈書かれた〉ことを意味しない。そうではなく、それを〈書き始める〉という行為自体が、「歌学史」が内意する〈意図〉と〈方法〉が規定されたということを意味している。佐佐木信綱(18721963)が著した『日本歌学史』(1910)の冒頭は、次のように始まっている。

 一般の用語例に従へば、文学といへば、主として創作上の産物の謂にして、文学史といへば、やがて各時代の作家の創作の変遷発達を記せるものたる観あり。歌学もしくは歌学てふ語は、之に比較し来れば、その語相似て、その意義ひとしからず。文学てふ語が創作上の産物を主とせるとは異なりて、歌学てふ語は、和歌に関する何らかの知識、もしくは学問を指せり。・・・・・・さらば、歌学とは如何なるものぞ。歌学てふ学問の明確なる意義は如何、と考へ来たらむか。そは一般の文学論に根柢を有し、根本的に詩歌とは何ぞやといふ問題に答へ、以て和歌の性質を明らかにせる、統一的組織的知識及び、それに付随せる各種の学問的研究ならざるべからずといへども、かかる意義に於ける歌学は今に於いて猶未だ成立せず。殊に、凡てに於いて学問的研究の幼稚なりし往時に於いては、さる企図だに之を求むべからず。さればかゝる厳密な意味にて歌学史を物せむことは殆ど不可能なりとせざるべからず*2。(傍点筆者)  

 佐佐木信綱における「歌学史」という〈始まり〉。しかしながら、その〈始まり〉において、「歌学史を物せむことは、殆ど不可能とせざるべからず」と、自らがそれを〈書き始める〉にもかかわらず、その言説的編制における困難性を表明しているのは、奇妙ではなかろうか。しかし、友常勉が指摘するように、「〈始まり〉が問題となるのは、それが固有の時間=〈ある時間の始まり〉を創出」し、また「〈始まり〉の言説は、ある歴史や文化が常に始原からの連続であると主張するときに立ち上げ」られる。そして、「〈始まり〉の言説が書かれるのはそれが歴史の危機に直面しているとき」に、記述されるのだ*3

 本稿における問題構成はここから出発する。佐佐木が「歌学は、今に於いて猶未だ成立せず」/「歌学史を物せむことは、殆ど不可能とせざるべからず」と述べるように、「歌学史」の言説的編制の困難性に対する認識は、〈近代〉の到来に際して、「歌学」なるものが存在しないということを示唆している。ゆえに佐佐木は「歌学史」を〈書き始める〉。それは、「ひとつの計画された出発点と結びついた何ものかへ向かって船出すること」*4を意味しているといえるだろう。佐佐木は〈始まり〉の続きとして、次のように語る。

然りといへども、之を歴史的に考ふるに、古来歌学として雑然と論じ来りしものゝうちに、さる歌学の萌芽とも見べく、また殊に近代にいたりては、極めて近き所論を述べられりしものあり、すなわち在来の所謂歌論これなり。・・・・・・殊に近世の自由討究の精神を以て研究せし諸学者にいたりては、深く和歌の根本に論じ入りて、厳密なる意義に於ける歌学に近き所論をも公にせり*5

これによって、「歌学史」は編制されていく。それは佐佐木が思い描く姿に近い「和歌の根本」を論じたテクストだけが、「歌学史」として記述されることを意味している。つまり、書記行為としての〈始まり〉こそが、どのようなテクストを「歴史」として記し、また、テクストを「読む」ことにより、テクストが含意しているものを定義づけ、いかにしてそれを「歴史や文化の連続性」を線条的時間の内部に刻み込むのか、という〈意図〉と〈方法〉を規定するのである。この意味において〈国歌八論論争〉は、〈固有の時間〉の創出との言説的連関性を有しているのである。次節ではそのことを論述したい。

 

2.   「芸術」と「政教」という枠組みを越えて

 

佐佐木における「歌学」というべき言説は、『日本歌学史』というテクストが編まれる時点においては成立しないものであった。佐佐木は「歌学史」という〈始まり〉に規定されながら、その「萌芽」を探し求め、エクリチュール周辺を浮遊する。革新、斬新、新奇、独創、破壊。これらの語は、どれも〈始まり〉との言説的連関

を含意している。〈新しさ〉という語は、テクストにおける画期性が提唱される時、つねに召喚される言葉である。佐佐木の近世歌論をめぐる記述は、その最たるものであろう。
 

近世の歌学は、文運復興の気運に乗じ、中世歌学の師承伝統の余幣に反抗して興り、文運復興の精神たる自由研究をその精神とせり。而して自由研究といふ精神の底には、皮相的なる師承万能主義を打破して、根本的に研究せむとの要求あり*6

 

一見しただけでも、その画期性を主張していることが読み取れるだろう。復興、反抗、自由、打破。散りばめられた〈新しさ〉というエクリチュール。しかしながら、それこそが、ひとつの計画された出発点と結びついた何ものかであることは確かだ。佐佐木は明確に近世歌論を、自分が思い描く「歌学」との親和性を見出していたことがうかがえる。佐佐木は、その中でも荷田在満の『国歌八論』を高く評価し、「翫歌論」について、次のように述べている。

 

在満が斯くの如き学説に主要を為すものは何ぞと云ふに、そは即ち、和歌は詞花言葉の翫びなりと説きて、新古今の歌風を主張せし点にあり。斯くの如きは、古学勃興時代の歌学の大勢より見れば、新奇の観あり。さらば在満が説の由来は如何といふに、吾人がこの章の始にも一言せし如く、彼在満が自得の見解なり。・・・・・・而して彼がこの詞花言葉の説は、わが国の歌学説が、自然説の極端に走らむとせし一般の欠点を補ひて、和歌の芸術としての性質を明瞭にせし点に於いて、歌学史上最も注意すべきものたり*7

在満の〈新しさ〉は、佐佐木によって、「芸術」という枠組みで捉えられている。しかしながら、このような規定は、すぐさま田安宗武と対置され、長年にわたり、「新古今/万葉主義」であるとか、「芸術至上/儒教的政教主義」という構図によって捉えられてきた。本稿で行う作業は、佐佐木による〈始まり〉を前提としないで、〈国歌八論論争〉を「読み直す」ことである。しかしながら、それは単なる再解釈という意味ではない。むしろ18世紀の徳川日本という時空に編まれた〈国歌八論論争〉というテクストを、同時代における〈歌〉への膨大な関心と言説が集約される〈思想空間〉として捉えることで、「読み直し」を行うことである。故に本稿では、単線的叙述や主張の羅列を論じるようなことはしない。

以上の視座を踏まえた上で、在満・宗武・真淵の言説的位相を考察する。

 3.        在満と〈今〉の世 

なぜ一八世紀徳川日本に、夥しい歌論書が生産されていくのだろうか。江戸時代の歌人たちにとって、〈歌〉とは何であったのか。彼らは多くの歌論書を書くことで、一体何を捉えようとしたのか。この問いは、本稿全体に貫かれた根本的な関心であるが、『国歌八論』というテクストは、一八世紀徳川日本において、もっとも読まれた歌論書だと言える*8。それを別の言い方をすれば、このテクストにおける〈歌〉をめぐる理念が、抗争的な性格を持っていたことを示している。

 〈国歌八論論争〉は、荷田在満(170651)と田安宗武171571)との論争に、賀茂真淵16971769)が宗武の主張に呼応する形で三者の間で取り交わされ、応酬されたものである。この論争の経緯を確認すておけば、1742(寛保2)年に、田安宗武の和学御用として仕えていた荷田在満が、宗武の求めに応じて、歌の存立意義に関する意見をわずか三日で書いて献上した。その見解に対して不満であった宗武が、『国歌八論余言』で在満に対して批判を加え、さらに賀茂真淵に『余言』を示して意見を求めた。真淵はそれに答えて『国歌八論余言拾遺』を草稿として提出し、さらに推敲して『国歌論臆説』として整えて再献上した。この真淵の回答に共感した宗武が『臆説剰言』を出し、真淵はさらに『再奉答書』を出して、意見交換がなされた。一方で在満も『国歌八論再論』を草して反駁し、最後に宗武が『歌論』を著した。この一連の論争が、〈国歌八論論争〉である。

 『国歌八論』(1742)で、つねに問題とされてきたのは、在満の「翫歌論」をめぐる解釈についてである。「詞花言葉を翫ぶ」とは、一体何を意味して言表されたものなのか。それを新古今主義的な態度の表れだと表現している学者もいれば、政治とは遊離した〈芸術性〉を表明したものだと解釈する研究者もいる。近年の研究で、子安宣邦は、在満の「翫歌論」の同時代的意義を考察し、「翫歌論」を〈生活から遊離した歌〉を要求するものとして捉えた。子安は次のように述べている。

 〈生活から遊離した歌〉とは、歌が己れの特設の場を、いいかえれば歌がその美を成立させるための特設の場を、すなわち言語的な表現技法への配慮・工夫が支配する場を要求することである。在満はその特設の場を支配する歌人のモチーフを「詞花言葉を翫ぶ」ことにあるといっているのである*9

 しかしながら、子安が主張するように「歌がその美を成立させるための特設の場」を要求した言説として「翫歌論」を捉えることは、いささか早急ではなかろうか。『国歌八論』が有した抗争的性格は、「翫歌論」だけを取り上げて語れるものではない。『国歌八論』の抗争性は、「美の自律」にあるのではなく、〈歌〉の普遍性とその歴史認識に関わる問題だと考えている。本稿では、その言説的位相について、より丁寧に腑分けしていく作業が求められる。在満における〈歌〉をめぐる視座は、次の「歌源論」冒頭の一節から構成されている。

それ歌は、ことばを永うして、心を遣るものなり。然るを、心に感ふことを見るもの聞くものにつけていひ出せるなり、とのみいひては、いまだ尽くさず。古事記日本紀に見えたる、伊邪那岐、伊にや邪那美の命の、「あなにやえをとこを」、「あなにやえをとめを」と唱えたまえるは、心を感ふをいひ出せるなり。されど、これをば「のたまふ」とのみいひて、歌といはざるは、たゞ唱えたまへるのみなればなり*10

 在満は、『古今集』の「仮名序」を批判しながら、歌とは「心に感ふことを見るもの聞くものにつけていひ出せる」ものではなく、「ことばを永うして、心を遣るもの」として規定したうえで、自らの感情表出だけでは、歌とはいえないという姿勢を示す。そうして、在満は歌の本来の姿を追求し、〈古〉の歌のありかたを探ろうとする。

 須佐之男の命の「やくもたつ、いづもやへがき、つまごみに、やへがきつくる、そのやへがきを」とのたまひしも、同じく心を思ふことを言ひ出せれるなれど、これをばまさしく歌といへるは、うたひたまへるなればなるべし。・・・・・・から国の歌を見るに、また同じく然り・・・・・・尚書の益稷にある帝舜、皐陶の歌ぞ六経の中に、始めて見えたる歌にして、乃ちうたひたまへるなることは、益稷の文にて明らかなり。げに、うたはざれば心を遣るべからず。うたふには、ことばを永うすべし*11

 「然れば、わが国も、から国も、歌はうたふものにこそありけれ」*12というように、歌における歌謡性に対して普遍的な価値を認め、それが本来の姿だと説く。そして、このような〈起源〉の認識を根底に置きながら、在満は「うたふもの」としての歌が、いかなる変質を遂げていくのかを見定めていくのである。それが在満における和歌に対する歴史認識のモチーフなのだといえよう。さらに在満は筆を進め、この「うたふもの」としての歌が変質していく契機を、中国からの「詞花言葉を翫ぶ」態度、すななち言語を修飾し、詠歌に込める態度が流入した時点に求めていく。

 然るにから国は、我国より文華の早く開けたる国なれば、毛詩より以後、漸くに詞花言葉を翫び、李唐に至りて、最も詩文の隆盛の時なり。唐の高祖の初めは、わが国推古の御宇に当り、盛唐は元明、元正のころに当る。その間、わが国にて、大津皇子始めて詩賦を作り、それより連綿として、作る所、みな唐詩を模せり。蓋しこのころわが国毛詩の漸く変じて、唐詩となれるを見て、わが国の歌も、これに准じて、始めて詞花言葉を翫び、その言葉の漸くに華に移りたるべし*13

 このように検討を重ねるならば、在満は従来いわれてきたように、ア・プリオリに「詞花言葉を翫ぶ」という姿勢を認めていたわけではないことが、理解できるように思われる。在満はあくまでも歌が本来持つべきものである、「うたふ」ための歌が、「詞花言葉を翫ぶ」歌へと変質してしまった過程について、中国からの影響を射程に入れながら語っている。つまり在満は、詩歌における詩的言語としての「うたふ」ことと「翫ぶ」ことへの〈変化〉を、ただ単に肯定しているわけではなく、その詩的言語における性質が根本的に〈断絶〉したものとなったことを指摘しているのである。いいかえれば、在満における詩歌に対する歴史認識は、中国を基軸にしながら、詩歌における歌謡性=普遍性という視座によって貫かれているのだ。そして在満によれば、「うたふためにする」歌と「詞花言葉を翫ぶ」歌との差異が明確に出現するのは、『古今集』であるとする。すなわち詩歌における詩的言語の性質が変化する分水嶺として、『古今集』は定位されるのである。それはまた、〈今〉における歌の現状をも規定してしまうような決定的な出来事であったと在満は捉える。

 古今集に至りては、大御所の歌、東歌の類を除きて、外はうたふとは見えず。この時に至りては、詞林既に隆盛の時に至り、専ら巧拙を論じて、その優なるのみを撰びたること、序文にて明らかなり。これより後、今の世に至るまで、同じく詞花言葉を翫ぶが故に、あるは風姿の幽艶なる、あるは意味の深長なる、あるは景色の見るが如き、あるは難き題を詠み得たる、あるは連続の機巧なるを喜びて、その優劣を定むるに於いては、異なることなし*14

 在満は『古今集』を分水嶺として捉えることで、「うたふ」ための歌から、「詞花言葉を翫ぶ」歌へと変質していく過程を、「歌源論」のなかから遡及していくのである。このように、在満の言説を分析していけば、『国歌八論』は、有り得べき詩的言語からの離脱として歌の歴史を捉え、「詞花言葉を翫ぶ」ことが本質として受容されてしまった、〈今〉の世の歌はいかにあるべきなのか、という「問い」を含んだテクストだといえる。故に、『国歌八論』の抗争的性格とは、歌における〈今〉の世という歴史認識にこそ求められるべきであろう。かかる問いを抱えながら、在満は有名な「翫歌論」を語りだす。つまり、「歌源論」と「翫歌論」は深い言説的連関性が見出されるのである。在満は次のようにいう。

 歌のものたる、六芸の類にあらざれば、もとより天下の政務に益なく、また日用常用に資する所なし。・・・・・・されば歌は貴ぶべきものにあらず。たゞその風姿幽艶にして、意味深長に、連続機巧して、風景見るが如くなる歌を見ては、われも及ばんことを欲し、一首もかなふばかり詠み出でぬれば、楽しからざるにあらず。譬へば画者の画き得たる、奕者の棋に勝ち得たる心に同じ*15

 在満における「翫歌論」とは、〈芸術性〉を重んずる姿勢として打ち出されたものでもなければ、単に〈社会に遊離した場〉を要求するために語られたものではない。それは和歌の時代的変遷を捉えながら、「今ここに存在している歌とは何か」という問いに対する、一つの回答であった。だから、在満は次のように語るのだ。それは、単なる現状肯定というよりは、在満が見た〈今〉の世における歌をめぐる、同時代的な歴史認識として考えた方が妥当ではないだろうか。

 今、雅楽淫声の、耳を悦ばしむるものが多き中に、自ら作りたる詞なればとて、いかなる節をつけてうたひてか、心を遣るばかり楽しかるべきなれば、姑らく歌の本来を捨てゝ、世と同じく詞花言葉を翫ぶに若かず*16

 このように『国歌八論』を腑分けしていけば、在満を「芸術至上主義者」という表現では片付けられないことは明らかである。『国歌八論』が投げかけた波紋とは、〈今〉の歌を「うたふこと」の喪失として捉え、その詩的言語における普遍性=歌謡性を失った時代がいかなる時代であるのかということを提起したことにある。このような在満にみられる歴史認識は、論争当事者である宗武や真淵にも共有されていた認識であった。しかし、在満は〈今〉という時代の不可逆性を肯定する。〈今〉の時代は、〈今〉における歌の形式によって、詠歌されるべきであるという主張は、歌をめぐる〈危機〉がそこにはないことを逆説的に示している。田安宗武における歌をめぐる言説は、在満が暴露した〈今〉の歌に対する〈危機〉を読み込む。つまり、宗武は〈今〉の世を批判的に捉えることで、〈古〉の世界を召喚するのである。

 4.        田安宗武における『詩経』の復権

田安宗武は従来の研究において、「儒教的政教主義者」として総括されてきたことは否めない*17。だが宗武は「万葉主義者」でもなければ、「政教主義者」でもない。そのように総括した途端に、宗武が〈国歌八論論争〉という思想空間のなかで、何を語り、そこに内意されたものを見落としてしまう。宗武は〈今〉の世における歌という在満が提起した問題に呼応している。宗武においても、やはり〈今〉の世の歌をめぐる現状認識を含意したうえで、〈国歌八論論争〉を構成していくのである。宗武における〈今〉の世の歌は堕落したものであった。それをいかにして回復していくべきなのか。宗武はその回答を、『詩経』に本来あるべき詩歌の姿を希求していく。宗武は在満の「翫歌論」が提示した問いに対して、次のように述べる。

 舜は五すぢの緒の琴を弾き、南風の歌をうたひたまひて、天下を治めしとか、実に人の心を和らぐるは歌の道なり。されば聖の御代、礼楽を重んじたまへり、かの楽といふものゝ中には、歌も、舞も、弾きものも、吹きものも、鼓ちものも、みなこもりてあるべき、さればうるわしき歌は、人のたすけとなり、あしき歌は人をそこなふ。・・・・・・されば雅楽廃れて後も、聖、なほ詩経といふふみを撰ばせたまひて、人を導きたまふなり。これ後世、うたふにもしもあらねども、人の心を和ぐることは、常のことばには、いたく勝りぬわざなるべし*18

 宗武はこのように「礼楽」としての歌を重視し、人の心を和らげる歌が存在していた古代中国の姿、とりわけ『詩経』を理想化するのである。宗武の議論に朱子学的治道論が背景になっていたことは、容易に読み取れるだろう*19。この理想形としての『詩経』を対比したうえで、宗武は〈今〉の歌の有り様を語る。それはまた豊かで美しい歌の世界が衰退していく過程でもあった。

 世の末になりゆくまゝに何の意もあらで、たゞめづらかに、華やかなるをのみ好み詠み出づるほどに、果ては人のため、よしあしき便りとも、なるべきものにもあらず。なほたはれたる媒となるべし*20

 つまり、宗武における〈今〉の世の歌に対する認識は、「たゞめづらかに、華やかなるをのみ好み詠み出づる」ようなものへと堕落し、「礼楽」としての詩歌ではない、ただ形骸化された歌が残されたという認識である。宗武が「翫歌論」に異議を唱えたのは、在満が詩歌の普遍性を歌謡性の喪失として捉えたのに対し、宗武が考える詩歌の普遍性とは、「たゞ歌は、おのが情、喜び、哀しみ、楽しむほどにつけて詠み出づるもの」*21と述べていることからも理解できるように、人間における「情」を表現する詩的言語機能として、詩歌の普遍性を認識しているのである。その十全たる姿が〈古〉には存在していたと説くのである。宗武が在満の「翫歌論」で提起された、「今ここに存在している歌とは何か」という問いから読み出した〈危機〉の言説は、〈古〉を召喚することにより、〈今〉を批判する視座から語られるものである。

 古の人は、かくおのが心のまゝに、詠み出でしなり。さればその中には、同じさまなるもあり、或は巧ならぬもあり、また悪しきもあれど、みなおのが思ひ入りつる所を、そのままに詠み出でたればにや、あはれなるふしぶしあること、今なんが見るが様に、おぼゆるも多かるぞかし*22

 宗武は、詩歌における本質的な姿を回復していく方法を『詩経』の復権に求めていく。つまり、宗武は〈今〉の世で堕落してしまった歌を打開する戦略として、『詩経』に見出された〈古〉を召喚するのである。

 またおのづからも、はた設けても、さる心よまんはわづらはしからざらんかといひしは、則ち詩経の心にこそ侍らめ。詩経とても皆理りをいひたるのみにはあらず、葛箪の編の如きは只事をのべたるなり。されば此の国のよしあし定めんも、詩経の心にたがふべからず*23

 

宗武を「万葉主義者」として看做すことは、もはや不可能である。確かに宗武には『歌体約言』という重要なテクストがあるが、それは〈国歌八論論争〉以後の文脈から捉えるべき問題であり、もう少し別の検討が必要であろう。〈国歌八論論争〉での宗武の位置付けは、『詩経』において見出される豊潤な詩歌の世界を提示することで、〈今〉という時代性を批判可能とする視座の構成を行ったことにある。では、最後の当事者である賀茂真淵に対しては、どのような定位が可能なのだろうか。次節ではそのことについて検討してみたい。

 

5.        賀茂真淵の詩的言語認識

 宗武は「臆説剰言」で、真淵との意見の相違について、「国歌臆説は大むね我言ひし処に同じ。只歌の源の論と歌をもてあそぶの論と少しく異なり、かのたがひも枝葉の事也」*24と語る。しかしながら、果たして宗武の言葉を鵜呑みにしてもよいのであろうか。なぜなら、真淵は、在満と宗武との間では一致していた、二神の唱和と片歌は歌ではない、という問いに対して、次のような見解を示すからである。

 「はしきやし、わきへのかたゆ、くもゐたちくも」という歌に、此者片歌也、とあるを見れば、この三句などある類ひを、片歌といひ、詞もかざらず、感ふ所を直ちに歌ひ出したれば、歌の始めは、言の短くぞありつらん。片歌といふことは、五句の歌あるがうへにての名なるべけれども、名は後にて、事は先なることも知るべからず。されば二神の大御言もなほ歌の起こりといはんかし*25

 真淵は、「感ふ所を直ちにうたひ出す」ことを歌の本質として規定し、その意味で在満と宗武によって否定された、片歌は歌ではないなどと言える根拠はないということを述べる。つまり、真淵は在満のように、「ことばを永うして心を遣る」という詩的言語機能と、「心を感ふこと」を率直に歌に仮託して表出する詩的言語機能に、〈断絶〉ではなく、〈連続〉を認めているのだ。しかしながら、真淵においても〈今〉の世の歌という時代認識は共有されたものであった。真淵による問題構成は、宗武が『詩経』というテクストの内部に回帰することで、〈古〉を召喚するのとは異なり、歌そのものへの根源的回帰こそが〈今〉の世で最も必要だと考えていたことであろう。その位相はやはり重なり合いながらも、認識論的には〈差異〉がある。故に真淵は、「心に感ふことをうたひ出す」歌とは何であるのか、という問いを提起していく。

 それ歌は心に感ふことをうたひ出すなり。或はひとりも、或は人に対ひてもその意の、まめにも、やさしくも、あはれにもあらんに、詞なびやかに、声も事に随ひて、たゞしくも、おもしろくも、かなしくもあらんは、おのが心のゆくのみかは、聴く人の心をも慰むるわざなり*26

 「心に感ふことをうたひ出す」というモチーフで重要なのは、詠歌における経験と心情の同一化である。真淵はそのことを主張しているのだ。つまり、真淵における歌への根源的回帰とは、ア・プリオリに前提されたものであり、「心を感ふことをうたひ出す」歌が共有されるならば、その共同体も全体的な〈古〉への回帰できることを主張している。真淵は次のように述べる。

 歌は用なきに似たれども、心を遣り人をなごし、ひろくは政のたすけとなるべくは、誰か詠まざらん。況や上好めば下はた好む。上、いにしへの意詞を用ひば、下はた古にかへるべし*27

このように真淵は、「言葉を永うして心を遣ること」と「心を感ふことをうたひ出す」という詩的言語をめぐる認識は、〈連続〉という位相において把捉される。そして真淵は歌における根源的本質を蘇生するために、〈古〉を呼び戻す。それは宗武と真淵との大きな認識論的差異である。それが鮮明に表れているのは、真淵による朱子学批判によって示唆されているだろう。真淵は〈国歌八論論争〉において、歌における「理」と「感」との相違を主張し、「感」の優位性を説く。

 さて宋儒に至りて専ら理をもてこれを説き、ひとへに勧善懲悪の為とす。凡そ理は天下の道理ながら、はた理のみ天下の治まるにあらず。詩はまことをのべ出すに、そのおもふごとくの実情みな理あらんや。たゞ理は理にして、それが堪へがたきおもひをいふを、和の語にわりなきねがひといふ。たとへば花を強ひてまち月にいたく惜むがごとく、はかなきことすら時にふれてはさる事侍り。まして身の存亡にかかれんことをや。そのわりなきねがひをたゞにいはば、たれかみな哀れとせん。詞やさしく声あはれにうたひなん理の外にて人情の感ずるものなり*28

 真淵における「感」の優位性を説く主張は、在満が提起した〈今〉の世における歌が、まさしく〈危機〉に曝されているという認識と結びつく。しかしながら、留意しておかなければならないのは、彼らが〈国歌八論論争〉の内部で、常に参照軸にしていたのは、漢詩とそれが含意する普遍性を前提にしていたことである。しかしながら、この論争が確かに孕んでいた予見性も言わなければならないだろう。〈今〉という歴史認識と、それに対する〈危機〉として召喚される〈古〉をめぐる言説がそれである。このような認識は、宣長がさらに評をつけることで流布していくが、それは歌論によって、〈今〉の世の歌をめぐる現状と歴史認識が、一八世紀徳川日本における歌人や知識人に認知されることを意味していた。〈今〉の世の歌やその時代性を考察するというという課題は、〈言語〉をどう把握するのかというラディカルな問題と直結し、その後の歌論を変容させていくのであるが、それはまた別稿に委ねたい。

 

6.        むすびにかえて

こうして〈国歌八論論争〉を概観していくと、この論争は従来の研究で指摘されてきたようなシェーマ的な枠組みでは、その様相を見失うことになるだろう。〈国歌八論論争〉は、三者が〈今〉の世の歌についてどう見るのかという共有された認識に支えられながら、「今ここにある歌とは何か」/「歌はどのようにあるべきか」/「〈古〉にかつて存在していた歌の本来性は、どのように回復すべきなのか」という問題群が、横溢していく思想空間として定位することが可能であろう。もちろん、それは〈芸術〉や〈人間〉を組み込んだ議論ではない*29。むしろ問題とすべきなのは、このように一八世紀徳川日本に生起していく、歌をめぐる膨大な言及や論争こそが、彼らの現実的問題だったということである。その錯綜し重層化された思想的位相を、「歌学史」という〈始まり〉を前提としないで再吟味すること。本稿はそのための序論としてある。

(『季刊日本思想史』69号、2006年。pp23-pp37) 

*1:サイード、E.W.『始まりの現象』山口和美・小林昌夫訳、法政大学出版局1992年。vxii頁。原著1975年。

*2:佐佐木信綱『日本歌学史』博文館、1910年。23頁。

*3:友常勉『始原と反復』三元社、2007年。42頁。

*4:サイード前掲書、xv頁。

*5:佐佐木前掲書、3頁。

*6:佐佐木前掲書、251頁。

*7:佐佐木前掲書、275-76頁。

*8:〈国歌八論論争〉の19年後の1761(宝暦11)年に、本居宣長が『国歌八論』への評を付けて刊行したことにより、『国歌八論』は流布し、宣長の評をめぐり、第二期論争が起きている。この第二期論争は、儒学者の大菅公圭が宣長の評を批判する形で『国歌八論斥非』を著し、宣長は『斥非評』で反論する。さらに藤原惟済がそれに『再評』を付け、そして伴蹊も『国歌或問』を著した。その意味で『国歌八論』をどのように理解すべきテクストなのかということは、当時の知識人社会において、焦眉の課題だったことがうかがえる。

*9:子安宣邦『江戸思想史講義』、岩波現代文庫2010年。299頁。初出1998年。第九章「和歌の俗流化と美の自律」を参照。

*10:荷田在満「国歌八論」、土岐善麿編『国歌八論』、改造文庫、1932年。9頁

*11:同、10頁。

*12:同、11頁。

*13:同、13頁。

*14:同、17頁。

*15:同、18-19

*16:同、20-21頁

*17:例えば大久保正は、宗武の評価について、「和歌の本質をどこまでもその儒教的人生観に立脚した政教的意義において把握しよう」とし、「勧善懲悪的文学観から自由ではなかった」としている。大久保正『江戸時代の国学至文堂、1963年。139頁。しかしながら、このような議論は矮小化しか生み出さない。宗武における漢学の素養を詳細に分析したものとして、宇佐美喜三八の研究が挙げられるが、宇佐美による漢学と和歌との交渉という視点は、今もなお示唆に富む論点が多々ある。詳しくは宇佐美喜三八『近世歌論の研究』、和泉書院1987年。第2章「田安宗武の歌論」を参照。

*18:田安宗武「国歌八論余言」、前掲書、48-49頁。

*19:宇佐美前掲書、第2章「田安宗武の歌論」を参照。

*20:前掲「国歌八論余言」、49頁。

*21:同、62頁。

*22:同、61頁。

*23:田安宗武「臆説剰言」、124-125

*24:同、119頁

*25:賀茂真淵「国歌論臆説」、98頁。

*26:同、100頁。

*27:同、113頁。

*28:賀茂真淵「再奉答書」、152頁。

*29:この点に関しては、桂島宣弘「国学のまなざしと伝統の『創造』」、『歴史評論』659号、2005年に詳しい。また、清水正之『国学の他者像』ぺりかん社2005年は、本稿との問題意識と重なり合う部分もある。しかしながら、国学を「文化的伝統」と規定し、「人倫」を倫理思想史として分析することは、再び「日本という閉域」を構築してはいないだろうか。