〈神代文字〉の構想とその論理―平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考―

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1.はじめに

 近年の国学論、とりわけ国学言語論をめぐる議論の基盤には、《音声中心主義批判》とも言うべき一つの流れが ある。それらの先行研究では、一八世紀徳川日本という思想空間内部において、本居宣長が『古事記伝』によって為した〈始原〉としての「ヤマトコトバ」の語り出しが、〈日本〉という共同体の形成を画定させ、そのイデオロギーが内包する意味づけを示した1。その論点 にはいかに国学言語論が、「漢字」という《書記言語》を排除し、《音声言語》としての「ヤマトコトバ」という理念に依拠したイデオロギー的作業であったのか、という問題に帰着することができる。

だが、これから主題とする一九世紀における徳川日本の国学言語論が見せる相貌は、宣長によって惹起される《音声中心主義》と重なり合いながらも《変奏》を奏でる。そして《外部=他者》が介入し、邂逅した瞬 間、「ヤマトコトバ」という単一言語イデオロギーをめぐる言説が、〈中心〉と〈差異〉のストリームを奪い合う空間を形成しはじめる。本稿では平田篤胤(17761843)が、晩年に著した一連の〈神代文字〉論を分析していく。 だがその理論的前提として必要なのは、これまでの単線的なイデオロギーの生産を論じあう思想史を放棄することである。いま必要なのは数多の言葉たちが混合していく思考を聞き取る思想史である。それは一つの情念の中に多くの情念を含意する思想史でしかないだろう2

本稿の目的は、一九世紀日本の国学言語論が抱え込んだ《コトバ》をめぐる抗争に留意しながら、平田篤胤の〈神代文字〉論が持っていた論理構造とその波及性に 目を向けることである。まず平田篤胤の〈古伝〉の策定作業を検討し、次に『古史本辞経』(1839)で展開された言語認識について考察を行う。そして最後に一九世紀徳川日本における国 学言語論のパースペクティヴとナショナリティの変容について分析していきたい。しかし、〈神代文字〉論をめぐってはある近代日本の学者を乗り越えなければならないだろう。それは山田孝雄(1873~1959)である。

 

2.神代文字〉は妄説か?

 山田孝雄は、「所謂神代文字の論」(1953)という論文において、〈神代文字〉をめぐる議論がいかに 〈毒〉におかされた危険な代物であるのか、ということを怒りと憤りに満ちた口調で語気荒く語っている。その主犯者の一人が、山田が敬愛してやまなかった平田篤胤であった。山田の言葉を引用してみよう。

 

今、その論者の態度を顧みるに、我々が尊敬を措く能はざる平田篤胤といふ人まで、彼の潮音の筆誅にしてその半面に於いて、この「ヒフミ」「ホレケ」の四十七音を以て神字の代表的典型として一言も疑を挟まず、恰も之を既定の真理で動かすべ からざるものゝ如くにしてゐるのは、如何なる事情によるのであるのか、私は不可思議の一とするのであるが、しかもそれは絶大なる不可思議の一である3

 

1676(延宝4)年に潮音という僧が、『先代旧事本紀大成経』という偽書を著した。以来、その存在がまこと しやかにささやかれてきた〈神代文字〉は、1936(昭和11)年には、その存在を声高に提唱した天津教への弾圧事件を引き起こすことになる。その意味で〈神代文字〉自体が持つ《擬似革命》性の問題 は決して小さくはない。しかし山田は〈神代文字〉の存在自体を否定する。研究史的に言えば、〈神代文字〉の存在をめぐる議論は、この論文により決着がついたことになる。だが、山田は自問する。自らが尊崇する篤胤が、なぜ〈神代文字〉などという「妄説」を信じたのかと。山田はそのことを「絶大なる不可思議の一」と述べる。もちろん、そこには山田孝雄の《国語》観と、「国体の護持者」としての篤胤像が交錯していることは見逃してはならないだろう。山田は戦時中に著した『国語の本質』(1943)というテクストの中で、次のように《国語》を既定している。

 

凡そ言語といふものは既に述べた通り社会的歴史的のものであるからして、国語そのものはもとより我が国家我が民族を離れては客観性を失ふものであることは勿論、我が国の歴史、我が民族の生活を離れては理解出来なくなるものである。単に理 解が出来ぬのみならず、我が国の歴史、我が民族の生活を離れてしまったら、どこに国語といふものの本体があるのであるか4

本稿ではこれまで多くの諸氏が山田の《国語》観について指摘しているため、詳細は述べない5。ここで重要なのは、山田が想像=形象化した「国語()」にとって、〈神代文字〉という存在は、明らかに「国語()」の範疇を逸脱したものだったことを確認するだけで十分である。この山田による論文以降、〈神代文字〉論は《国語学者》や《文献学者》たちによって、真面目に捉えられることもなく、一笑に付されてきた。しかしながら、本稿ではそのように「妄 説」として退けることはしない。むしろ、本稿の目的は〈神代文字〉論が、一九世紀前半という時代に膨大な言及が行われた、その思想史的事態を積極的に捉え直ことにある。それでは平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考と〈神代文字〉論を分析していくようにしよう。

 

3.〈真の伝〉の痕跡

 

3.1 宣長と〈皇国〉

なぜ篤胤は〈神代文字〉にこだわったのかという問題は、篤胤にとっての〈古伝〉とは何か、 そして篤胤にとって《コトバ》とは何か、という問いへとつながるように思われる。篤胤における〈古伝〉という策定作業。それは篤胤自身の「狂信」――この 言葉は篤胤という存在を規定し続ける呪詛のようなものだ――から出たものではない。子安宣邦が述べるように、それは「正しい神代」へのイマジネティヴな眼差しを伴う、想像=形象化の作業であったと指摘することが出来る6。この「正しい神代」への想像=形象化こそが、〈神代文字〉への存在を篤胤に確信させた。しかし我々は先を急ぐ前に、本居宣長における「ヤマトコトバ」の読み出しの あり方を確認することから始めよう。宣長は《漢字》を排除しながら、純然たる《正音》が刻印された「ヤマトコトバ」の復原を試みようとする。『漢字三音考』(1785)の有名な箇所だが、引用してみよう。

皇大御国ハ。・・・・・・如此尊ク万国ニ上タル御国 ナルガ故ニ。方位モ万国ノ初ニ居テ。人身ノ元首ノ如ク。萬ノ物モ事モ。皆勝レテ美キ中ニ。殊ニ人ノ声音言語ノ正シク美キコト。亦夐ニ萬国ニ優テ。其音清朗 トキアザヤカニシテ。譬ヘバイトヨク晴タル天ヲ日中ニ仰ギ瞻ルガ如ク。イサヽカモ曇リナク。又単直ニシテ迂曲レル事無クシテ。眞ニ天地間ノ純粋正雅ノ音也7

 宣長によって、〈皇国ノ正音〉と不可分なものとして立ち上げられるこの言説は、良く知られているように、音声中心主義イデオロギーを成立させるものである。〈文字〉に依拠しない言語活動に支えられた共同体としての〈皇国〉。その理想的な共同体の形態が『くず花』(1780)では次のように語られている。 

言を以ていひ傳ふると、文字をもて書傳ふるとをくらべいはんには、互に得失有て、いづれも勝れり共定め               がたき中に、古より文字を用ひなれたる、今の世の心をもて見る時は、言傳へのみならんには、萬の事おぼつかなかるべければ、文字の方は るかにまされるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言傳へのみなりし代の心に立かへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし・・・・・・殊に 皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸ふ国と古語にもいいひて、実に言語の妙なること、萬国にすぐれたるをや8

 宣長によって、〈文字〉なき共同体への果てしない希求は、「言霊の幸はふ国」としての〈皇国〉という言説を見事に構成している。しかしながら、一九世紀にお ける国学者たちの議論は、宣長があらかじめ排除しようとした問いから《コトバ》と《共同体》への論理と思考を張り巡らせ、それを出発点とする。宣長が執拗に排除しようとし、根源的に欠けていた問い。それは《コトバ》における〈音声〉と〈意味〉との関係であり、《コトバ》の心的イメージに対する問い。そして、〈文字〉に刻印された伝承性への問いである。〈神代文字〉論は〈文字〉の伝承性に関わる問いだが、この意味で、一九世紀の国学者たちは、宣長を絶対化された「頂点」としては考えていないし、その思想運動は直線的でもない。共同体をめぐる表象と理念は、それ自身が〈差異〉として運動するのだ9

 

3.2 「祝詞」の正統性としての〈書体〉

 篤胤における〈神代文字〉論は、宣長によって語り出された「言傳へ」が純粋に成立していた という主張を換骨奪胎することで語り出される。篤胤もまた、「言傳へ」によって継承されていく純粋な口誦言語のあり方を考えるのだが、むしろ篤胤は《コトバ》を神的意志の現れとして捉える。故に篤胤にとっての《コトバ》とは、根源的な神的意志と共同体の〈起源〉を同時に内包しているものでなければならない。篤胤にとって、「言傳へ」が途絶えることなく今の世まで、〈真の伝〉を提示しているテクスト。それは「祝詞」に他ならない。『古史徴開題記』において、篤胤は次のように語る。

 

皇国の古傳説の起源は、天地いまだ成らざりし以前より、天つ御虚空に御坐して天地をさへに鎔造ませる、産霊大神の御口づから、天祝詞もて、皇美麻命の天降坐せる時に御傳へ坐ると、其千五百座の御子神たちの、裔々の八十氏々に語り継たる、或は世に弘く語り傳たるも有が中に、天祝詞なる傳は、古傳説の本にて正しき 由よしの論より、天つ祝詞と称ふこと、また産霊神の祝詞を傳へ坐る故よし、祝詞の傳への、古事記日本紀の傳へとは異なる故よし、また祝詞に、上古の文と後 世の文の別ある由、日本紀古事記なる傳は、世に弘く傳はりたるを集め記されたる故に、自然訛れる傳へも交れるを、祝詞の傳へによりて、正し辮ふべ き・・・・・・10

 この篤胤の言辞は、明らかに〈音声〉に支えられた物言 いではあることは確かだ。というのも、〈古伝〉の起源とは、「産霊大神の御口づから」語り継がれた伝承に求められているからである。しかし同時に篤胤は 〈古伝〉をめぐる議論の根底に懐疑を挟む。すなわち、記紀神話が編纂されているという《事実》を読み出していく。〈古伝〉の策定にとっては、記紀神話に 「自然訛れる傳へ」が混在することが問題なのである。

 

古事記神代紀に載せられたる傳々は、彼の千五百座と 多かる神の、御裔の家々に傳はりたる、或は世に弘く傳たる説等をも、聚め載されたれば、自然に訛り混たる傳の多く交るべき謂なりける11

 

この言辞によって、いま一度〈真の伝〉を復原するには、混在した伝承性を排除しなければならない。篤胤は「祝詞」が有する伝承の正統性に、その優位を見出すことで、〈古伝〉という聖なる伝承の真理を把捉しようしたのである。

 

然も有ば、祝詞なる故事の、古事記神代紀なる傳に勝りて正しき由は、如何にして知ると云に、総て古傳説はしも、古は更なり、今にも通りて、神随なる道の実事に違ふことなく、萬の事物の理に符へるを以て、正しき傳説と知ることなるを、祝詞 なる傳々は、よく実事の旨に符ひて、萬の理に符ざる事なき故に、眞に正しとは知らるゝなり12

 

故是を以て今古傳を撰ぶに、太祝詞なる 傳へを以て、有が中の最上たる傳と定めて、古事記神代紀なる傳をば、是が次に立、二典の謬錯れる傳をも、太祝詞事の有限りは、其に依て正しく辨ふる物ぞ。 此成文を読まむ人、まづ其意を得てよ13

このように、篤胤の〈古伝〉という策定作業は、〈真の伝〉の痕跡を示すテクストとしての 「祝詞」の優位性という視座から構築されるものだが、その正統性を保証するのは、「祝詞」が漢文以前の《書記》性、すなわち〈書体〉を守っていたからに他ならない。篤胤はその意味において、宣長との理論的乖離を深めていくが、それは篤胤の《コトバ》をめぐる論理構造を読み解く際に、重要な分岐点となっていく。篤胤は宣長を批判しながら、「祝詞」の〈書体〉の正統性を次のように語る。

 

殊に漢字を用られざる以前には、世継の 古事を記せる史籍とてはなく、故事を記せる物は、まづ祝詞にて、これ古事古籍の本なるを、漢字わたりて後に、彼にならひて記せるが、皇国にて物記ことの始 めならむには、必ずまづ祝詞をこそ、漢文に書くべき物なるに、書と書く物の悉く、漢文に記し習つゝ、歌を仮字に、祝詞は宣命書に、別に書法を立べき謂なし。・・・・・・実に歌と祝詞は神世より書来つるまにまに其故実を失はず古き書体を守来り餘の事実を記せる書も古は右に同かりしを天武天皇の御心として国史風に記さむことを所思看起して其由を詔ひいで元明天皇の御世に安麻呂の古事記を記されたるが漢の国史風を学ばむと為たる始なること上に次々論へる趣を思ひ通して辨ふべし(傍点筆者)14

 

3.3 篤胤における〈神代文字〉の構想

 ようやくわれわれは、篤胤における〈神代文字〉論の核心に迫ることが出来るように思われる。しかしそれは《書記言語》と《音声言語》との二項対立でもなけれ ば、従来の研究で指摘されたような文字還元主義でもない15。問題 は、篤胤における古代ヤマトにあるべき姿としての《コトバ》をめぐる思考を問うことである。言い換えるならば、〈神代文字〉という思想的主題を通すことで、一八世紀日本に宣長が喚起した純粋な《共同体》への希求が、編制=変成され、その表象をめぐる論理自体を組み換えようとする、その意味を問うことが重要である。篤胤の〈神代文字〉論は、〈真の伝〉が存立する〈書体〉の起源そのものへと向かう。このようにして、篤胤は象形文字に触発されながら、古代日本における〈神代文字〉の存在を確信する。篤胤は古代における人々が自らの《コトバ》の音声と文字を変換したものだと説く。

限なき事物の象形を尽く書かむことは、煩しく労がはしき事なる故に、口より出る音の印を形にうつして、仮字を製り給へりけむ。……此を仮名と云る義は、音の印 を仮に書て、象形の字の真に、其物の形を書たる字に対たる称なるべし。……如此在ば眞字と云も、象形の字をいふ本よりの古言なりけむを、漢字を専に用ふる 世となりて、彼は字ごとに義ありて、音の符と製れる神世の仮字と異なるもの故に、彼をいふ称とはなりにけむ16

篤胤は「口より出る音の印を形にうつし」た文字こそが、〈神代文字〉なのだと説く。この〈神代文字〉へ注がれる情念は、その材料を膨大な古書群の中から、蒐集/渉猟することで、その文字群を《創作》する行為へと結びつく。その情念と作成の過程が、『神字日文伝(1818)に示されている17。篤胤 は次のように述べる。

然れど御国なる千ぢの語は。この五十韻の音に通ふ趣を思へば。一向に。神世には。五十音の次第なせるは。無かりしとも言がたし。この書集つる字等の中には。 たゞヒフミヨといふ四十まり七つの音もて。次第なる字ぞ。其言のさまも。字の形も。他国に比ふべき物あらず。実に千早ぶる神世の物なるべし18

篤胤が〈真の伝〉として疑わなかった、「祝詞」に啓示された神的意志を含意した〈古伝〉と、そこで示された神聖なる《コトバ》をめぐる思考は、「神字日文」 という独特な世界へと変貌を遂げるのである。この篤胤による〈神代文字〉への執拗なまでの情念は、固有言語としての「ヤマトコトバ」をめぐる国学的言説を 変容させる力を持っていた。次章では、篤胤晩年のテクストである『古史本辞経』(1839)に着目してみよう。

 

4.『古史本辞経』とその言語認識

 4.1 『古史本辞経』という 〈名づけ〉の行為

 篤胤が著した『古史本辞経』というテクスト。篤胤はその名前の由来を語り始める。篤胤がこのテクストを『古史本辞経』となぜ〈名づけた〉のか。引用は長くなるが、そこを糸口にして篤胤の《コトバ》をめぐる思考とその論理構造を見てみたい。

 まづ書名を。古史本辞経となむ按ひ出ける。其は古史とは。古事記日本書紀の二典を云ふ。主とは此の二典の古訓に據らむと欲ればなり。・・・・・・其の古語の本辞と称ふべき語を稽ふるに。必ず 二言の語に極りて。其の語凡て二千二十五言ぞ有ける。姑く是に五十聯の音の一言なるを合すれば。二千七十五言。これ本辞にして。此の餘に。二言四言五言六 言なる語。いく千萬づの限り無らむも。(此の本辞の外なるは。)異 国の語を除ては。唯一つだに有こと無く。今集むる言ども。即ち有ゆる言語の経言なるが故に乃ち経とは名くるなり。・・・・・・然るは経とは乃ち機の竪糸に て。緯とは即ち横糸なり。此はしも。畏きや天照大御神の。高天原にして。始めて織りませる御機の事より起れる語なるを。転して西土にも。大倭にも。天地の 経緯など云ふを始め。種々の事に活用かし云ふこと多かる中に。書の名におほく用ふる事は。経は常也と訓て。常典と為べき由の名なるを。今撰べる二千二十言 はも。近き世多く。人の撰れる語書の類に非ず。賀茂の翁の。引きて発たぬ誨へを推して。天の下の経言を錯綜へ尽せるにて。元より経と云ふべき物なればなり19

 篤胤はこの『古史本辞経』というテクストの〈名づけ〉について述べているわけだが、「ヤマトコトバ」の《構造》を明らかにしようとしたものであることが述べられている。篤胤は「ヤマトコトバ」という言語それ自体を〈糸〉のアナロジーとして語る。すなわちそこには、《コトバ》が織り成され、生成していく磁場を把握しようという篤胤自身の〈意図〉が現前化しているように思われる。この『古史本辞経』という固有のテクスト。しかし、この〈名づけ〉という言遂行が持つ意味は大きい。なぜなら、その固有名こそが篤胤における《コトバ》と「世界」との関係性の了解と認識論を示しているからである。ここで市村弘正の〈名づけ〉をめぐる行為についての考察は、大きな示唆を与えてくれるだろう。

 

名づけるとは、物事を創造または生成させる行為であり、そのように誕生した物事の認 識そのものであった。[中略]名づけられることによって「世界」は、人間にとっての世界となった。人間は名前によって、連続体としてある世界に切れ目 を入れ対象を区切り、相互に分離することを通じて事物を生成させ、それぞれの名前を組織化することによって事象を了解する。このように「名づける」ことに よって物事が生みだされるとすれば、世界はいわば名前の綱目組織として現われることになるだろう。したがって、ある事物についての名前を獲ることは、その存在についての認識を獲得の獲得それ自体を意味するのであった20

 篤胤における《コトバ》の思考について考察する際、『古史本辞経』という固有名を持つテクストを、〈名づけ〉という行為から語り出していることは、注意深くあらねばならない。なぜならそれは、篤胤によって《コトバ》をめぐる事象が、どのように区切られ、組織化されたのかという認識論的布置を示すものだから だ。その意味で《コトバ》という「世界」を篤胤はどのように見ていたのだろうか。それをこのテクストを通して考えてみたい。

 

4.2 五十音図」の〈訂正〉作業

篤胤は『古史本辞経』において、従来の「五十音図」を〈訂正〉する作業を試みる。それは、 篤胤自身の「ヤマトコトバ」における認識論と重なり合うわけだが、それはこのテクストを通じてより鮮明になっている。篤胤は賀茂真淵(16971769)を「我が古学びの祖父」と崇めながら、その「五十聯の音」の特権的地位について、次のように語り出している。

 

抑是の五十聯の音はも。上の件語意の説の如く。天地自然の声音なれば。天地を鎔造し 給へる神の大御言            に。素より然る定格ありて。其の言霊幸をし。次々に傳へし故に。最上古には。殊にその図を模して。示し誨ふる迄もなく。天の益人ら皆知ら ず識らず。其の言語に。其の道自然に備はりて。少かも誤まる節無かりける21

 篤胤による《コトバ》への問い。篤胤は「五十聯の音」が図式化された、その「音図」が未だに諸説入り乱れ、画定されていないことであり、そこにある種の苛立ちを隠せない。なぜなら、〈皇国〉という共同体は「音韻言語の道」が完備してこそ成立をみるものであったからである。

 古語に。言霊の幸はふ国。言霊の祐くる国と称へ以来し事の如く。高天原に神留坐す。 天皇祖大神たちの。天津神語をし。禰継々に。云ひ継ぎ語り継ひし故に。宇都志世人の。音韻言語の道。また夐に萬の国に優りて。正しく美たく。足ひ調へる御 国になも有りける22

 篤胤にとって〈皇国〉とは、「音韻言語の道」と不可分な関係を有した共同体であり、またそのような共同体であらねばならない。しかし、篤胤においては〈音声〉はそれ自身では《コトバ》とは言えない。彼における《コトバ》とは音韻と意味性が秩序 化され、組織化されていなければならないものであったことに注意すべきだろう。その《コトバ》の秩序を示し、抽象化された図面が「五十音図」であるはず だ。故に篤胤はそれを自然の摂理として語ることをはばからない。だが、それを取り戻すためには、「異国」を、より正確に言えば、「五十音図」に深く刻印された「悉曇」という存在を消去しなければならない。

然るに。今なほ是の図を。悉曇などに習はずは。作得まじき物のごと云ふ人あるは。なほ異国を揚げて。我が古を陋しむる僻の。止ざるになむ有ける23

 悉曇に習」う人々が、「異国を揚げて。我が古を陋しむる僻」に陥っている限り、神聖なる「五十音図」は復原できない。だから「五十音図」の起源は、まさしく 〈皇国〉にあるのであり、従来の「悉曇」を基礎とした「五十音図」は誤謬に満ちた代物なのだ。それ故、篤胤はその〈訂正〉作業とそれが伏在している〈意図〉を次のように述べる。

古語本辞を釈むと欲るには。其竪横の音韻は元より。位置の訂正また専要の事なり。斯て今の世に弘く用ふる所の竪行。アイウエオ。横行アカサタナハマヤラワの図 は。前後の条に論ふ如く。悉曇章に依れる図にて。梵語の上には随分宜しけれど。皇国本辞の亀鑑と為すには。良行を第九位に置こと尚宜しからず24

 そして篤胤は「五十音図」の〈起源〉について、次のように語る。

さて其の上つ代に。音図こそ未制らね。其音の数に合たる。神字の五十字有りしこと。 日文伝に述る如くなれば、其音を類聚して。図を作れるは。実にも其の古説の如く。応神天皇の御世にて。其は赤縣籍を読しめ給ふ時に。彼の邦の字音を。此方 に正しく傳へむ為に作れるが。其の草創にぞ有けむ25

 五十音図」の成立については、これまでの研究蓄積が明らかにしているように、「悉曇学」の影響を考慮に入れなければならない。しかし篤胤は「悉曇学」の枠組みの痕跡が、「五十音図」には否定すべきもないほど に組み込まれているが故に、その論理を逆手に取り〈皇国〉の論理として再説するのである26。だが、ここで見落としてならないのは、篤胤における言語論は、常に篤胤自らが想像=形象化した〈古史〉という認識から照射されているということである。その 意味で、篤胤国学における《コトバ》への視座と、その〈訂正〉作業は、篤胤が作り上げた世界観そのものなのだと言うことが出来るだろう。次は《コトバ》の 〈生成〉と〈音義〉説をめぐる篤胤の論理について検討してみたい

 

4.3 《コトバ》の生成と〈音義〉説

 篤胤の「五十音図」の〈訂正〉作業は、《コトバ》の〈生成〉をめぐる言説と密接に関係している。篤胤は自ら〈訂正〉したハングルの反切表にも似た「五十音図」を示しながら、次のように《コトバ》の〈生成〉を語る。(1も参照)

抑世の初め。天皇祖神の産霊に資りて。 大虚に侌易混沌たる一の物生出たるが。其の物二つに分れて。其の軽清りし物は上に萌騰りて。高天日の御国と成り。其重濁れる物は。下に凝結びて。此宇都志 国と成れるが。其根にまた別に一の物成りて。此も断離れて。月予美国と成り。然して国土より天に昇る道を。天の八衢と云ひ。国土より予美国に降る道を。泉津平坂とぞ云ける。是天地の初発の大凡なり。・・・・・・然るに奇霊なるかも。五十音の阿行をはじめ。其の余の九行も其の竪は。此道理にいと熟く符ひてぞ有ける27

 篤胤の言説が提示するのは、《コトバ》という世界が『霊の真柱』で構想した宇宙創成神話に包摂され、それが〈生成〉の瞬間から、篤胤が描く宇宙創成神話の中 に組み込まれている構造である。この《コトバ》における〈生成〉の起源は、母の胎内というアナロジーで語られるのだが、それは言語活動が《身体》的な活動 であると同時に、その言語活動に支えられて「生」を営む人間が、極めて《身体》的存在であることを解説している。篤胤は続けて言う。

其は。人の音声の。起り出る原より稽ふるに。我人共に。母の胎内に在る間は。其の気 息を。臍帯より受るまでにて呼吸なく。呼吸なき故に。声なきは素なれど。其は外に聞ゆる音こそ無けれ。竟に初声を揚べき[]は。 身体の中府に根ざして。喉口の間に含み持たり。此は我人の祖先。始めて神の産霊を分賜りしより。今に相続し来れる物にて。神眞の道に。霊根元気と称する是 なり。是乃ちつひに云とも宇とも響き出る声にて。諸声これより分り出れば。声の本には有なれど。人胎内に在りて。その声いまだ出ざる間はかの天地と分るべ き一物の。混沌れて牙を含み在りしと。全同じ趣なり28

 篤胤における《コトバ》をめぐる考察は、いわば言語活動を一つの〈生成〉として認識することによって、《身体》という新たな主題を浮かび上がらせている。す なわち、篤胤が考える《コトバ》とは五感そのものであり、《音声》と《身体》による感覚的活動が内意された理念として立ち上げられていく。その認識論的布 置は、一九世紀の国学者たちが唱えた「言霊音義」説と深く関わっているように思われる。「言霊音義派」と呼ばれる国学者たちは、五感を伴う言語活動から 〈音声〉の意味性と、「音象」と呼ばれる《コトバ》の心的イメージを説いていく。しかし、その問いこそが《コトバ》をめぐる国学的言説の変容を語っているのではなかろうか。篤胤は次のように述べる。 

 さて言語は。声音より起ること素にて。其の五十聯の声音に。各々自然に意あり。象あり形あり。其は人の世に  経る。事わざ繁き物なれば。見る物聞く物につけて。情その中に動きて。其の声種々に発る。然るは物有れば必ず象あり。象有れば必ず 目に映る目に映れば必ず情に思ふ。情に思へば必ず声に出づ。其声や。必ず其の見る物の形象に因りて。其の形象なる声あり。此を音象と謂ふ。・・・・・・抑 音象にかく。自然の定まり有りて。言と成るに。其の言必ず。其の見る物を指象りて。嗟嘆せるに形はる。其やがて其の情の中に動くに因ること上の如し(傍点筆者)29

「言霊音義派」と呼ばれる国学者たちは一九世紀において広範に現れていく。彼らが主唱した〈音声〉に関わる意味性と心的イメージをめぐる問題は、「国語学」と いう学知成立以前には大きな影響力を持ち、新たな思想的事態として知識人社会に現前化したことは改めて強調してもいいだろう。篤胤はその思想空間内部で、《コトバ》をめぐる思考を張り巡らせていたのだ。これまで篤胤の《コトバ》をめぐる思考と論理を中心に考察してきたわけだが、次章ではもう一度〈神代文字〉論に立ち返って、その波及性と応酬を考察し、一九世紀徳川日本における知識人たちの《外部=他者》との邂逅をめぐる議論を垣間見ることで考察を終えたい。

 

 5.自己増殖するナショナリティと《外部=他者》と の邂逅

篤胤を媒介者とすることで、伝播する〈神代文字〉論は、それ自体の存在の有無だけではなく、固有言語としての「ヤマトコトバ」における〈起源〉とその〈来歴〉が問われる問題として浮上し、議論が応酬されていく。平田篤胤の〈神代文字〉の揺る ぎない確信に対して、最も激しい批判を行ったのは、伴信友(17731846)であろう。信友と篤胤の間には、しばしば指摘されるように、個人的感情の対立があった30。しかしながら、そのような矮小化された議論に我々は立ち入る必要を認めない。その対立は、〈神代文字〉論においても行われるわけだが、端的にいえば、信友は神代文字否定論者である。だが問題なのは、その結論ではなく、関心の所在の方ではなかろうか。信友の『仮字本末』(1825)は、その題名が示す通り、仮名文字の〈起源〉と〈来歴〉 について、事細かに考証したテクストである。序文にはこう記されている。

仮字といふ事の皇国の用ひ来れるゆゑよしを始として、いはゆる平仮字片かな男文字女 文字の起源を、くはしく考へ、また今俗にももはら用ひ馴れたる、伊呂波うたあるは、梵讃漢讃和讃、あるは今様歌順礼歌はたヲコト点といふものゝゆゑよし、 及神代字の事さへに転化ひ来し次第をことごとく証し弁へ記されたる・・・・・・31

 信友の関心の所在は、文字のいまここにある姿と、その意味について、関連した史料と関係づけながら渉猟することで、その秘められた〈歴史〉を読み取ることに こそあった。その意味で、篤胤と信友は、そもそも《コトバ》をめぐる認識論自体が異なっていたのだ。いまここにある《文字の歴史》を読み解く信友と、悠久の古の《文字の歴史》を製作しようとする篤胤。その抗争の主題は、その〈差異〉において交錯している。だから信友にとって、〈神代文字〉という存在は、そ の過程から推論する限り、必然的に否定されるべきものであらねばならず、さらには、篤胤が夢想する〈神代文字〉が、朝鮮諺文からの剽窃であることを《発見》するのである。

あるが中に字体もおほかたさだかにて、みだりに作れるものとは見えざるが三体あるは、今朝鮮にて、諺文と   いひて用ふ国字の古体にて、吏道といふものとぞ見えたる、さるをわがともがらうひうひしきが中に、まことの神代なりとおもひまどへ るがあるに、かたはし論ひきかせたりければ、いとゞしくまどはしくなりぬ・・・・・・32

 信友は、このように篤胤の〈神代文字〉が朝鮮諺文からの剽窃であることを述べる。しかしながら注目すべきなのは、一九世紀徳川日本における《コトバ》をめぐ る論理、また〈神代文字〉論というフィールドを通して見えるのは、かかる《外部=他者》との接触と異他混淆によって、そのナショナリティを自己増殖させていくような構造を有していたということである。それを自らの内部として包摂するか、あるいは批判するのかは、思想家たちによって多様性があったとはいえ、 〈神代文字〉論は、その意味で「ヤマトコトバ」という固有言語の理念をめぐって、互いが交錯し、闘争し、あるいは対話しあいながら、共時的に出現していく 思想空間の有り方を示唆しているように思われる。例えば、鶴峯戊申(17881859)は、西洋の数量文字から類推することで、古代日本に存在していた〈神代文字〉を確信する。

 戊申按ニ。今西洋ニ用フル字ノ数量文字。一をトシ。二をトシ。三をトシ。四をトシ。五をトシ。六をトシ。七をトシ。八をトシ。九をトシ。十をトス。田賦集ナル数量文字ト大同小異也。然レドモコレ天地の勢ニテ。タマ /\相似タルモノニテ。敢テ彼ワレニ倣ヘルニ非ズ。我カレニナラヘルニモアラザルベシ。件の諸説ヲ考ヘワタシテ。太古皇華ニ文字有りし¬ヲサトルベシ33

 このように戊申の言辞からも理解できるように、一九世紀徳川日本における知識人たちの《コトバ》をめぐる論理にとって、かかる《外部=他者》との邂逅は、も はや避けられない事態であった。それは〈皇国〉という共同体の表象の言説が、自己増殖的に《外部=他者》を組み込み、連鎖することで、その秩序システムと 「ヤマトコトバ」という象徴を編制していく作業として捉えることが出来るだろう34。多様で異他混淆的な《外部=他者》の領有化という事態こそ、一九世紀徳川日本という思想空間に、共有された国学者たちの認識論的基盤でもあったからだ。篤胤は 次のように語る。

 其は皇国はしも。元より萬国の皇国にし有れば。萬国の事物の用ひるべき限りは。借用 ふるまでも無く。皆取り用ひ給はむに。何でふ事なき道理なれど。まづ歴法また文字などの類ひ。此方に固より有つるを。其はさし措れて。諸越のを取用ひ給へ るなどは。借用ひたりと云ふも然る事なれど。師説にもある如く。人の形を始め山川草木鳥獣などのさま。此方も佗国も大抵同くして。然しも異らざれば。其を 絵に書たるも。互にに相似たるを。五十聯音もその如く。皇国にも佗国にも自然に固有せるが故に。そを図に模せば。大抵同じ様となるなり。また有るを有ると し。無きを無きと為べきは勿論の事ながら。無き物をも有りと誣るは僻めるなれど。其は僻みながらも。国に実なる心より云ふなればなれば憎からぬを。無き物をなしと云ふは更なり35

 

6.むすびにかえて

本稿では、平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考と論理構造を、〈神代文字〉論を通して考察することで、宣長を一つの〈差異〉として捉えた。また篤胤の〈古伝〉の伝承性を保証する「祝詞」の〈書体〉という発想 や、言語論的テクストとしての『古史本辞経』について言及してきた。本稿の目的は〈神代文字〉という主題により、いかに一九世紀の国学者が《コトバ》をめ ぐる思考それ自体を変容させ、あるいは解体し、そして新たな《共同体》としての〈ヤマト〉を変成=編制していく、その現場に立ち会うことであった。さら に、《外部=他者》の邂逅という世界史的事態が生み出すナショナリティの変容を、〈神代文字〉を媒介にして考察してきた。しかし残された課題も多い。本稿 では示唆するだけに止まった「言霊音義派」の国学者たちの動向や、篤胤と同時代人である、香川景樹や富士谷御杖歌論における思想的位相への検討は、残さ れた課題であろう。しかしながら、従来の系譜的研究の線上に位置付けるのは無意味である。求められるのは、一九世紀徳川日本という共時的空間の内部に、矛盾した〈差異〉を含意しながら重なり合っていく言説生成の現場それ自体を問うことではなかろうか。篤胤の〈神代文字〉論は、かかる射程を含意した問いかけとして、いま一度俎上に置かなければならない。

 (韓日次世代学術FORUM編『次世代人文研究』第4号、釜山、2008年。pp147-pp166)

 

市村弘正(1996)『増補「名づけ」の精神史』平凡社ライブラリー.

 

・ イ・ヨンスク(1996)『国語という思想』岩波書店.

 

・長 志珠絵(1998)『近代日本と国語ナショナリズム吉川弘文館.

 

・表 智之(1997)「〈歴史〉の読出し/〈歴史〉の受肉化」『江戸の思想』 第7号、ぺりかん社pp7292.

 

______(1997)19世 紀日本における〈歴史〉の発見」『待兼山論叢』第31号、pp1731.

 

川村湊(2002)『言霊と他界』講談社学術文庫.

 

子安宣邦(1991)本居宣長岩波新書.

 

_______(2000)「〈国 際語・日本語〉批判」『方法としての江戸』所収、ぺりかん社pp263285.

 

_______(2001)『「宣長問題」とは何か』ちくま学芸文庫.

 

_______(2001)平田篤胤の世界』ぺりかん社.

 

酒井直樹(2002)『過去の声』酒井直樹監訳、川田潤他訳、以文社.

 

・田原嗣郎(1963)平田篤胤吉川弘文館.

 

・ジル・ドゥルーズ(1992)『差異と反復』財津理訳、河出書房新社.

 

・ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガ タリ(1994)千のプラトー宇野邦一他訳、河出書房新社.

 

・友常勉(2007)『始原と反復』三元社.

 

長山靖生(2001)偽史冒険世界』ちくま文庫.

 

・馬渕和夫(1993)五十音図の話』大修館書店.

 

・村井紀(1989)『文字の抑圧』青弓社.

 

・森田康之助(1979)伴信友の研究』ぺりかん社.

 

・山下久夫(2000)平田篤胤・「神代文字」論の主題」『金沢学院大学文学部紀要』第5集、pp3952.

 

_______(2003)「原形志向の古代像と生成の古代像」福田晃古稀記念刊行委員会編『伝承文化の展望』所収。pp584597、 三弥井書店.

 

山田孝雄(1943)『国語の本質』白水社.

 

_______(1953)「所謂神代文字の論」『藝林』第4巻3号、pp31-pp51

 

 

1子安宣邦(1991)本居宣長岩波新書。同『「宣長問題」とは何か』(2001)ちくま学芸文庫。 村井紀(1989)『文字の抑圧』、青弓社.酒井直樹(2002)『過去の声』、酒井直樹監訳、川田潤他訳、以文社などを参照。

 

2この方法は、ドゥルーズ=ガタリの言語をめぐる考察に示唆を受けている。ジル・ドゥルーズ=フェ リックス・ガタリ(1994)千のプラトー宇野邦一他訳、河出書房新社98. 原著1980年。

 

3山田孝雄(1953)「所謂神代文字の論」『蓺林』第四巻三号.

 

4山田孝雄(1943)『国語の本質』白水社、4243.

 

5詳しくは、イ・ヨンスク(1996)『国語という思想』岩波書店。長志珠絵(1998)『近代日本と国語ナショナリズ ム』吉川弘文館子安宣邦(2000)「〈国際語・日本語〉批判」『方法としての江戸』、ぺりかん社などを参照。

 

6子安宣邦(2001)平田篤胤の世界』ぺりかん社.

 

7本居宣長全集』第五巻、381384.

 

8本居宣長全集』第八巻、124.

 

9 表象というパースペクティヴへの批判は、 ジル・ドゥルーズ(1992)『差異と反復』財津理訳、河出書房新社98. 原著1968年。

 

10平田篤胤(1936)『古史徴開題記』山田孝雄校注、岩波文庫33.

 

11同、43.

 

12同、40.

 

13同、47.

 

14同、151152.

 

15平田篤胤の〈神代文字〉論については、川村湊(2002)『言霊と他界』講談社学術文庫(初出1990年)。 長山靖生(2001)偽史冒険世界』ちくま文庫、山下久夫(2000)平田篤胤・「神代文字」論の主題」『金沢学院大学文学部紀要』第5. (2003)「原形志向の古代像と生成の古代像」福田晃古稀記念刊行委員会編『伝承文化の展望』三弥井書店.

 

16同、57頁 -58.

 

17神字日文伝』は、屋代弘賢(17581841) との共同作業によって成り立っていた。篤胤の〈神代文字〉論のテクストは、一つの声に多くの声が入り混じった、多声性を帯びたテクストであることが知れる。この点は、表智之(1997)「〈歴史〉の読出し/〈歴史〉の受肉化」(『江戸の思想』第7号、同(1997)19世紀日本における〈歴史〉の発見」(『待兼山論叢』第31号から、多くの示唆を受けた。

 

18『新修平田篤胤全集』第15巻、192.

 

19『新修平田篤胤全集』第7巻、415416.

 

20市村弘正(1996)『増補「名づけ」の精神史』 平凡社ライブラリー134.

 

21『新修平田篤胤全集』第7巻、424.

 

22同、416.

 

23同、436.

 

24同、436.

 

25同、425.

 

26. 五十音図」の歴史的経緯については、馬渕和夫(1993) 『五十音図の話』、大修館書店を参照

 

27前掲、438.

 

28.

 

29同、488.

 

30田原嗣郎(1963)『平田篤胤吉川弘文館、森田康之助(1979)伴信友の研究』(ぺりかん社な どを参照。

 

31伴信友全集』第3巻、385.

 

32同、470.

 

33鶴峯戊申「鍥木文字考」。静嘉堂文庫所蔵。

 

34 の点については、友常勉(2007)『始原と反復』三元社、230231.

 

35前掲、606.