読書会のレジュメ作業

回復したので、読書会の後半部分の途中まで、先ほどまで書いていました。

拙ブログで公開した読書メモとも引用は部分的に重複はしてしまうのですが、

読書メモに関しては、ポリシーとしては自分用として書き留めている側面もあり、

その上で、いま自分は何を考えているんだろうというのを自身で整理する意味合いもありますから、

また、しっかりとした紙媒体に掲載するわけでもないので、基本出せる範囲で出しているつもりです。

幕末期の護法思想の問題で、浄土真宗の僧侶の活動が突出していることと、他宗派による僧侶は、護法活動に対して冷めた態度を取っています。

浄土真宗の護法運動が盛んだった理由の一つとしては、近世期における浄土真宗を取り巻いていた内部事情として、西本願寺教団の中で、1762(宝暦12)年から1806(文化3年)まで、本山と末寺が入り乱れた、「三業惑乱」事件という教学上の争論が起こり、それは、東本願寺教団にも波及したものであったため、西本願寺東本願寺も含めて、教学上の「見直し」作業が必要だったことが、内的要因として挙げられると思います。

「三業惑乱」事件に関してですが、

越前出身の功存という僧侶が、蓮如の「御文」の一節である、「後生たすけたまへとたのむ」という文章について、

功存は、阿弥陀如来に助力を頼むものであり、助力を頼むときには、阿弥陀如来に礼拝し(身)、口で「たすけたまえ」と称え(口)、心で往生を願う(意)という、「身口意」という、「三業」による動作が必要である、という教説を主唱したことが、事の発端でした。

しかし、この功存という僧侶は、本山の学林も「他力本願に背くのでは?」という意見が噴出しながらも、最高教学機関である学林も、功存の教えは真宗の教えに適うものである、と認定してしまい、また功存も教化活動に優れていた功績から、学林の首座である「能化職」に就任したことから、地方の僧侶からも異論が相次ぎ、門徒による暴動にまで発展するという、「事件」が起こります。

この事件は、歴史的に見ても、西本願寺と仲の悪い東本願寺教団にも波及しかねないものでして、東本願寺教団も、「対岸の火」ではなかったことが、推察され、「こちらも僧風を刷新しなければならないのではないか?」という危機感があったものと思われます。

「三業惑乱」事件と重なるように、富永仲基『出定後語』(1745年刊)と『天経或問』(1730年刊。西川正休点)の波及と、儒者による経世論的視座による真宗批判が、仏教の宇宙論や歴史像、社会的制度的立場を揺るがせかねない、外在的な問題として浮上せざるを得ず、

このことから、浄土真宗の内部的な事情と重なる形で、幕末護法論において、浄土真宗の僧侶が主導していく理由が見出せるのではないか、といまのところは、考えています。

ただ、レジュメでどこまで出来るかは、未知数ですが。