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『表象07』拝読しました

表象〈07〉

表象〈07〉

昨日届いた『表象07』を先ほど拝読しました。

今回の特集は、「アニメーションのマルチ・ユニヴァース」。

本特集が主に対象としているのは、「クールジャパン」に代表されるような、ありがちな「アニメ文化論」を相対化し、むしろ歴史的な「厚み」を持っている視覚芸術としての「アニメーション」をめぐる問題系について、対談・論考・インタビュー・翻訳などから再考を試みており、大変興味深いものでした。

土居伸彰さんによる「イントロダクション」には、本特集の意図が次のように書かれています。

この特集が目指すのは、アニメーションをめぐる「夢」の話を一度リセットして考え直すということだ。そのためにまず、アニメーションの多元宇宙性を描き出し、アニメーションをめぐる自意識の相対化がしたいのだ。私たちがかつてアニメーションに(もしくはアニメーションを通じて)どんな夢を見ていたのか、どんなユートピアの夢を見ることを私たちに許してきたのか、そして私たちを実際にどのように変えたのか、私たちが生まれる前にまで遡って考えてみたいのだ。(pp19)

 

本特集の中で、最も興味深かったのは、トマス・ラマールさん+石岡良治さん+門林岳史さんによる対談「『アニメ・マシーン』から考える」です。

これは、トマス・ラマールさんの『アニメ・マシーン』(名古屋大学出版会から近刊予定)をめぐって行われた対談なのですが、かなり読み応えがありました。

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

The Anime Machine: A Media Theory of Animation

The Anime Machine: A Media Theory of Animation

話題は多岐にわたり、とても整理はできません。

僕の印象として、宮崎駿作品に対する違和感がずっとあり、「なんでだろう」と考えたりしたこともあったのですが、対談の中で触れられている「少女」に関する問題として整理すると、自分なりに腑に落ちました。この「少女」をめぐる議論は色々と考えさせられました。かなり長いですが引用しておきます。

石岡:アニメにおけるジェンダーとセクシュアリティの議論についていえば、これは先ほど話題になった宮崎駿作品におけるハイデガー的モチーフとも関わりますけれども、『天空の城ラピュタ』でシータが最終的に世界を救済するシーン。それについて論じている第七章をラマールさんは「いま、少女のみが私たちを救済できる Only a Girl Save Us Now」と題しているのですが、これは「神のようなもののみが私たちを救済できる Only a God Can Save Us」というハイデガーの晩年の言葉のパラフレーズです。これは一神教の神ではなく、ハイデガーが技術論において、ポストキリスト教的な神々「のようなもの」として思弁を行っている部分のもじりです。宮崎駿ハイデガーにおける「未来の神」を「少女」に変換している、そして、少女のみが未来につながっている、という議論で、私はここを非常に興味深く思いました。ただ、アニメをめぐる日本の言説のなかにこういう議論をもってくると、下手をするとばかばかしい冗談になりかねない。けれど私は、これは冗談に近いけれども、きわめてシリアスな問題だと思っていて……。

ラマール:「少女が神さまになる」というレトリックは、もちろん半分は冗談です。宮崎駿自身は自分の作品は少女文化にはあまり関係ない、と否定しますよね。

 
石岡:それはおそらくウソですね(笑)。彼は「少女のみが私たちを救済できる」と本気で信じていると思います。
 
門林:「少女のみが救済できる」はもちろん、ハイデガーの言葉をもじっているわけですけれども、それと同時に「戦闘美少女」という斉藤環が展開した主題を連想させます。(とりわけ第二〇、二一章)で斉藤環さんによる精神分析的なオタク文化分析についても論じていらっしゃいます。
 
ラマール:アニメには明らかに「少女文化」という問題圏がつねにあるし、それはいまでも存続しつづけています。……斎藤環の場合に問題なのは、無意識の作用のほとんどを、ある一定のキャラクターに割り当ててしまう傾向があることです。彼の議論では、少女ないし女性が常に欠如の位置を占め、否定性と結びつけられている。けれども私は、よりフーコー的、ドゥルーズ的視点から考えていて、その場合、少女は否定性のみならず肯定性とも結びついています。だから、斎藤環とは異なるところに強調点を置きました。実際、なぜ彼はあのようなかたちでアニメを語るのか、私には分からない。彼がまったく間違っているというわけではないでしょうが、問題は、アニメは常に欠如を埋め合わすべく存在しているという印象を与えてしまうことです。何か問題を抱えていて、それに対する治療を待っているという。……心理学的な葛藤はアニメ作品に先立ってすでに存在しており、アニメを通じてそうした葛藤を解きほぐすという構造がある。そうした問題は実はいつでも起こっています。例えばアニメーションがイメージに運動を与える、と言うときにも、あたかも運動が外側から与えられたように理解されてしまう。けれども、ベンヤミンないしアドルノ的な意味での内在的批評の立場からアニメーションのことを考えるなら、そこに無意識があるのだとすれば、それは肯定的な無意識でなければなりません。つまり、脇にのけられたり抑圧されたりするような無意識ではなく、アニメーションのかたわらで常に作用し続けているような無意識です。そこで、アニメーションにおける物質的な次元と、そこに関連づけられた非物質的な属性を区別するならば、「少女」に具現化されているのはそうした非物質性にほかなりません。(pp34-pp35)
 
宮崎作品だけではなく、日本のアニメ作品で、物語中における「少女」が置かれている比重の高さは、色々考えるべき問題なのかもしれない、と感想を抱いた次第です。

この対談以外でも、興味深かった論考や書評を挙げておきます。

まず、堀切克洋さんの「象形文字としての身体―マラルメニジンスキーアルトーにおける運動イメージについて」(pp207-pp229)。

堀切さんの論文は、マラルメニジンスキーアルトーの舞踊論を分析の糸口にしながら、彼らの運動イメージをめぐる思索こそ、「イメージの言語学」とも呼ぶべき思考の可能性を孕んでいたという明確な論旨が伝わるもので、論文中の主題を一貫した「物語」として収斂させる手際よさは、僕が論文を書く上で苦手としているところでして、こちらも学ぶべき要素がある論考でした。

書評では、沼野充義先生の「絵画――書物――文学――ブルーノ・シュルツを蘇らせるために――加藤有子『ブルーノ・シュルツー目から手へ』書評」(pp282-pp285)は、とくに印象深いものでした。

ブルーノ・シュルツ―目から手へ

ブルーノ・シュルツ―目から手へ

加藤有子さんの本書は未読ですが、沼野先生の書評を機会にして、これから読んでみようと思います。

他にも興味深い論考は数多くあるのですが、とりわけ自分の関心に引き付けて目についたものだけを紹介しました。その点に関しては何卒ご海容下さい。

また、各書評の末尾に付されたブックガイドは、今回も秀逸でした。

雑駁な印象に終始したエントリかもしれませんが、ご笑覧して下されば幸いです。