竹内好の存在としての「遠さ」

今日も竹内好について予習。

今年度の研究会の前期例会に関しては、自分にとって、「苦労」する予感しかありません。

去年の丸山眞男に関しては、ある種の「通過儀礼」を受けた存在でもあり、また、丸山眞男という存在が、自分の中に、ある意味で「暗い情念」とも言うべき部分を形成させた張本人だったから、ある程度こなせたと思うので。

「丸山先生は読むべき。丸山先生は素晴らしい。だから丸山先生が書いた本は必ず読みなさい」ていう支配的風潮は、僕が学部を過ごした時はありました。

それについては、ここで何度か触れたことがありますので、これ以上は何も言いません。

しかしながら、竹内好の場合、丸山眞男のように、個人史として強烈な「内的体験」がないが故に、どうアプローチすればいいのか、その糸口を探っているところです。

今は、「方法としての・・・」という大風呂敷はともかく、「歴史的資料として竹内好を読み解くためには、どうすればいいのか」という根本的なところで躓いています。

今日、竹内が書いた数本の論文を読んだのですが、先行研究をつき合わした上で色々考えていくしかないのかな、って考えています。

振り返れば、「色々読んだけど、何も身になっていない」という一日だったような。