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井上哲次郎と「新体詩」

〈目次〉

1 はじめに

2 〈回想〉する井上哲次郎―もしくは「詩」の名付け

3 〈長さ〉と〈わかりやすさ

1 はじめに

井上哲次郎18851944) という人物は、いくつもの「問題」を孕んでいたのにも関わらず、「国民道徳論者」として後年の研究者たちから〈断罪〉を受け、ある意味で「近代日本」の負 の側面を一身に背負った人物として紹介ないし説明されることが多い。その故だろうか、実は井上哲次郎をまともに取り上げた研究はそんなに無いという事実に すぐ我々は行き当たる。それは、「井上哲次郎は保守的な国家主義者であり、急進的なイデオローグだったから、ことさら井上の文章を論じて批判し取り上げる 必要は感じない」という研究者側の勝手な暗黙の了解が為されてきたことによるものである。だが第1回 報告で磯前順一氏がかかる研究者の立場は繰り返し批判されるべき視点であることを言っており、これまでの井上哲次郎に対するあまり生産的ではない叙述のあり方をいかに克服していくのか、ということを重要な問題提起として挙げている。その上で今後の井上への取り組み方について次のように述べている。

井上哲次郎研究を考えたとき、たしかに井上が国家主義のイデオローグであることは動かし難い事実なのですが、そこに収まらないズレもまたその著作には孕 まれており、それがどのようにして国家主義のなかに同化されていってしまったのか。あるいはそのように見えつつも、それを裏切る動きとして彼の思考に捩れ を引き起こしていったのか。そのせめぎ合いとして、あるいはそのなかでの思考の軌跡として、井上の著作とその生涯に取り組んでいくべき時期にきているので はないかと思います[1]

テクストを単なる文章の集約体として見るのではなく、さらに表層的な〈意味〉だけを受け取るのではなく、「織物のように編み目をどのように引っ張るかで全体の模様が変転していく」[2]と いう方法こそ、井上哲次郎の諸著作・論文の中でも取るべき視座として採用しなければならないだろう。しかしながら問題は、「国家主義者」として総括されが ちな井上哲次郎が書いたテクストの中での「ズレ」や「せめぎ合い」をどのように掬い取るのかということだろう。その意味で『新体詩抄』(1883) は、井上哲次郎研究においても、「近代文学/詩」においても、その「せめぎ合う場」が刻印されたテクストとしては好例のように思われる。それだけでなく、 このテクストは「近代詩」の〈起源〉として語られる代物である。だが、報告者は単に時系列に並べた際に最初にくるテクストだから取り上げるのではない。井 上らが「近代詩」の〈起源〉をこのテクストを起点にして語ろうとする欲望が、もしくはそれを垣間見える言表が、『新体詩抄』には確かに存在しているという 事実があるからだ。その意味で『新体詩抄』というテクストが孕んでいる問題性を検討するのは重要なことであろう。もちろん「新体詩」という言葉/概念自身 は井上らの創作である。しかしその概念をめぐって、すなわち「詩 poetry」というものが含意されている〈内容〉について、多大な関心が湧き起こるのである。その「せめぎ合い」の一端を本報告では検討しようと考えている。

 

2 〈回想する〉井上哲次郎―もしくは「詩」の名付け

普通ならば、『新体詩抄』の重要な〈序文〉から検討するところではあるが、まずは井上哲次郎が晩年において『新体詩抄』や「明治文学」について、〈想い出〉 として語り出している場面から書き起こしてみたい。というのも、井上自身がその〈出来事〉を、すなわち『新体詩抄』の編集などをどのように井上自身が捉えていたのか、という感情的なリアリティの問題の方が当面は重要だからである。もちろん、それには客観的な〈事実〉であったかどうかということの検討は必要 だろう。しかし井上自身の捉え方はどうであったのか。その点はあまりこれまでの研究においてもあまり触れていない部分でもあるので、若干検討してみたい。 主に使うのは、1934(昭和9)年の『国語と国文学』第118号に掲載され、塩田良平が聞書きしたものであり、「余と明治文学及び文学者」と題された「回想」である。ちなみにこの号には、1882(明治15)年に東京帝国大学において付設された古典講習科の学生であった、佐佐木信綱や和田英松などの「回想」も合わせて掲載されているので、明治初期における大学の有り様を知るには一助となるものであろう[3]。ちなみに井上自身は当時編修所(史料編纂所の前身)で助教授に就任していたが、彼は『新体詩抄』の契機を次のように語っている。

大学の編輯所で自分が編輯して居るところに、或る日植物学の教授理学博士矢田部良吉氏が外山正一氏と共に自分の所に来て、斯ういふのが出来たと云って自分に「ハムレット」のto be or not to be”の 所を翻訳したものを見せた。……其処で、矢田部氏の翻訳を見たところが、誠に平易で分り易く、何だか此の調子でシェークスピーアの作を翻訳したならば、世 間に始めて西洋の詩の味ひを味はすることが出来ようと思うたので、是は面白い、旨く出来て居ると多少読めたのである。而して幾くも無くそれに圏点を打ち、 漢文の評語を加へて『東洋学芸雑誌』に掲載したのである。それが新体詩の始めて世間に紹介せられた時である[4]

  この事実は、『新体詩抄』に見られる「ロングフェロー氏玉の緒の歌」の序文に井上がしたためた文章と一致するから、おそらく「新体詩」の〈始まり〉とはこのようなものであったことが想像できよう[5]

こうして井上哲次郎・矢田部良吉・外山正一の三者によって『新体詩抄』が編集されるわけだが、ここで重大な問題として挙げられたのが、「詩 poetry」 の範疇や規定をめぐる議論、そしてシェークスピアやロングフェローなどの〈翻訳〉された「詩」に未だ「名前」が無かったことである。すなわち「命名」をめぐる議論であった。名も無き詩形・リズム・詩的言語に対していかなる〈名づけ〉を行うのか、という事態の浮上は、おそらく次のことを示唆しているように思 われる。この時点から、「詩」厳密に言えばpoetry”の 〈翻訳語〉をめぐる知的ヘゲモニーの「奪い合い」もしくは磯前氏の言葉を借りれば、「詩」に関連する諸々の言説の「せめぎ合い」が開始されたのだと。つま り、それは単に「ヨーロッパ」と「日本」という地理的関係だけの問題ではなく、其の概念は既存の「和歌」や「漢詩」の概念的範疇には収まりきらない何ものかを確かに孕むような「問題」が出現したことを意味する。要するに、ハムレットにおける「日本」による〈翻訳〉の遂行はまず、「名も無きものへの命名」から始めなければならなかったことにこそ、後に広義の「詩」概念として浸透していくものとしてのpoetry”という語が孕んだ様々な「問題」が噴出していくのだ。「potry”と はそもそも何か」から始まり、「その語は漢詩・和歌とどのような差異と同一性があるのか」云々というように。まさしく井上らが陥ったアポリアとはそのよう なものであった。そうして彼らはそのヨーロッパから到来した「詩」なるものに言葉を与えようとする。それはまさしく新たな世界把握への意志というべきもの であろう。すなわちpoetry”という言葉は、命名者の思い描く秩序へと投入されることになるのだ。またそのことは市村弘正が指摘したような世界認識が構成されていくことを意味している。市村は次のように述べる。

名づけられることによって「世界」は、人間にとっての世界となった。人間は名前によって、連続体としてある世界に切れ目を入れ対象を区切り、相互に分離する ことを通じて事物を生成させ、それぞれの名前を組織化することによって事象を了解する。……そこには、空間や事物のありかたを決定づけ、それを経験世界へ と占有せずにおかない名前の威力が表明されている。名づけることは、「所有する」ことであったからである[6]

そしてこのアポリアの解決のために、井上らは名も無きものであったものに〈名前〉を与えるのだ。それが「新体詩」という〈名〉である。その経緯は井上自身の「回想」を通して次のように語られることになるが、次のように井上は「回想」する。

  自分と外山、矢田部両君の間に話が持ち上り、是れは一部の書物として出版しようではないか、出版するなら丸善から発行しようといふので、丸善の小柳津要 人といふ人に来て貰って相談したところが、出しませうといふので到頭『新体詩初編』が世に出ることになった。それで始めは西洋詩の翻訳が主であったが、幾 つか創作が加わったのである。然し是れに一定の名が無かった。何と名を附けたらよからうかといふことであったが、自分はそれは矢張り「新体詩」としたがよ からう、唯「詩」とすれば漢詩と思はれるし、「歌」とすれば昔流の和歌と思はれるからして、それらと区別するが為めに「新体詩」とすれば丁度適切な名称と 思はれるからさうすべきであると考へた[7]

この〈回想〉は重要である。というのも、「新体詩」として「命名」された詩群とは、漢詩ならざるものであり、和歌ならざるものであることを饒舌なまでに語っ ているからである。そして我々はかの有名な「凡例」へと行き着くことが出来る。それは「詩」なるものの「世界」への占有を意味している。ちなみに「凡例」 の記述は「編者識」としてのみあるが、これは井上哲次郎が記したことは「回想」から知ることが出来る。「凡例」は次のように新たに〈名づけ〉られた「詩」 を規定している。

均シク是レ志ヲ言フナリ、而シテ支那ニテハ之ヲ詩ト云ヒ、本邦ニテハ之を歌ト云ヒ、未ダ歌ト詩トヲ総称スルノ名アルヲ聞カズ、此書ニ載スル所ハ、詩ニア ラズ、歌ニアラズ、而シテ之ヲ詩ト云フハ、泰西ノ「ポエトリー」ト云フ語即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名ニ当ツルノミ、古ヨリイハユル詩ニアラザルナリ[8]

ここでは、漢詩や和歌の指示語としてではなく、「ポエトリー」を「総称」する〈名前〉としての「新体詩」もしくは「詩」が誕生したことを示している。こうして今まで〈名前〉が無かったとしての〈翻訳詩〉だけではなく、従来の漢詩や和歌までもがpoetry”の 概念的範疇に組み込まれることになった。その意味で井上らは「ポエトリー」という新たな世界把握を獲得したことになる。だが、「新体詩」として「命名」された諸々の「詩」は、〈名前〉を付けられただけではただの器でしかない。そこで井上らは新たな段階として無名だったものに今度は〈意味〉を持たせていく知的欲望を駆り立てていくのだ。次にそのことを考察してみよう。

3 〈長さ〉と〈わかりやすさ〉

井上たちは和歌や漢詩では従来の「詩」の概念では把捉不可能なものに対して、「新体詩」として〈名づけ〉を行ったわけだが、それだけでは確固たる〈内容〉を 含意したものとならないことに気付いていた。そこで課題となるのは、新たな意味の肉付けの作業である。井上は『新体詩抄』を編集した後も、しばしば「新体詩」に関わる発言を行っている。その中でも『帝国文学』に掲載された「新体詩論」(1897) において、井上は次のような「新体詩」の〈特徴〉を述べている。つまり「格法の自由なる事」・「規模の広大なる事」・「言語の豊富なる事」・「語格の近様 なる事」・「字句の勁健なる事」「旨意の明瞭なる事」・「進歩の傾向ある事」・「新奇の着色ある事」と述べているのだが、井上が考える「新体詩」の特徴の 中でも最も彼が意識していたのは、〈長さ〉と〈わかりやすさ〉である。つまり和歌における擬古体の言葉遣いや〈短さ〉や、漢詩の文体をかなり意識していな がら、「新体詩」との「差異化」を試みようとしているのだ。つまり少なくとも井上は意味の伝達という点にこそ、従来の漢詩や和歌の劣性を捉えているわけで ある。井上はその論文の中で次のように発言する。

新体詩は格法の自由なるが故に、如何様にも長大なるを得べく、長大なるに於て何等の際限もあらざるなり。或は一首を幾多の編に分ち、一編を幾多の章に分ち、一節を幾多の局に分ち、此くの如くにして一大長篇を為すと得べければ、其規模の広大なる断乎として長歌の及ぶ所にあらず。長歌は吾人の希望する所より 之れを云へば、尚ほ短小なるを免れず、此の如き短小のものを長歌と称するを以て之れを観れば、和歌の規模の如何に狭小なるかを知るべきなり。吾人は唯々長 大なれば佳なりとは云はず。然れども長大は已に美術の一要素なることを忘るべからず、何となれば、宏壮の観念は長大なるものによりて生ずべければなり。是 故に吾人は短小なる和歌を排斥して長大なる新体詩を称揚するものなり。……吾人は古代の歌人の如く、単純なる瞬間の直観的印象を以て、詩思の全部を蔽ふこ と能はず。吾人は更に之れより広大にして且つ錯雑せる思想及び感情を有せるを以て、之を韵文に叙述せんと欲するなり。然れども短小なる和歌は吾人の此目的 に適切ならず。唯々如何様にも長大なるを得べき新体詩にして始めて吾人の需要に応ずるを得るなり[9]

自らの複雑な感情や思想は和歌の〈短さ〉では到底表現しうるものではない。「長大」な〈長さ〉によって、自分の思想や感情を込めることが出来るのは、自らが 提唱した「新体詩」のみであると井上は主張するのだ。そしてそこにはある種の「美術的要素」があるとも井上は語る。もう一つの「新体詩」の〈特徴〉は、 〈わかりやすさ〉である。それに関連して井上は続けて次のように唱える。

若し唯、古代の死語のみを用ひば、旨意何となく朦朧として不明ならざるを得ず。是れ必ずしも其字句を解せざるより起るにあらずして、其死語の遼遠なる古代 に出づるが為めに直接に吾人の心情に親近切摯せざるに本くなり。……適切ならざる死語を羅列して旨意の更に明晰ならざるものを以て含蓄あるものと誤解する 勿れ。此くの如き詩篇は何等の含蓄もあるなし。仔細に看来れば、尽く是れ死語の連鎖に過ぎざるなり。此を以て我邦今日の詩となさんと欲せば、吾人其妄執に 驚かざるを得ざるなり。然るに新体詩にありては然らず。仮令ひ古語及び古格を存するものなきにあらざるも主として近様の言語を用ふるが故に、旨意自ら明晰 にして如何なる人も能く了解するを得。而して含蓄は意外の辺にあることあるを忘るべからざるなり[10]

この〈わかりやすさ〉への言及は、『新体詩抄』を編集する際にとりわけ重要なものであった。なぜなら井上哲次郎の「序文」と対応しているからだ。「序文」にはこのように記されている。

程子曰く、「古人の詩は、今の歌曲の如し。閭里の童稚と雖も、皆之を習聞し、而して其の説くところを知る。故に能く興起し、今老師・宿儒と雖も、尚ほ其 の義を暁ること能ず。況や学者においてをや。是れ詩興ること得ざる也」と。余此文を読みて、慨然とし嘆きて曰く、「今の歌曲は古人の詩の如し。而るに今の 人之を知らず。今の歌曲を賤しみて古人の詩を尚ぶ。嗚呼また惑へるかな。何ぞ今の歌曲を取らざるか」と。……蜀者ゝ山居士と尚今居士、陸続して新体詩を作 り以って余に示す。余受けて之を読み、其の文俗語を交えると雖も、而して平平坦坦にして、読み易く解し易し。乃ち歎じて曰く、是有らんや。閭里の童稚と雖 も、之を習聞して、何ぞ之難きこと有らん[11]

編者の一人であった、外山正一もまた、「三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想ハ、線香烟花か流星位の思に過ぎざるべし」[12]と和歌の〈短さ〉を批判しつつ、「新体詩」の〈わかりやすさ〉と〈長さ〉を強調し、新たな「詩」概念の構築を試みようとしているのだが、外山は井上よりも明瞭に「新体詩」における〈わかりやすさ〉を述べている。

 唯々人に異なるは人の鳴らんとする時は、しゃれた雅言や唐国の、四角四面の字を以て、詩文の才を表はすも、我等が組に至りては、新古雅俗の区別なく、和漢 西洋ごちゃまぜて、人に分かるが専一と、人に分かると自分極め、易く書くのが一つの能見識高き人たちは、可笑しなものと笑はゞ笑へ……多くの人の其中に は、自分極の我等の美学を賛成する馬鹿なしとせず、安んぞ知らん我等のちんぷんかんの寝言とても、遂には今日の唐詩の如く人にもてはやさるゝことなきを[13]

このようにして井上たちは「新体詩」の意義を〈長さ〉と〈わかりやすさ〉にこそ、漢詩や和歌が持ち得なかった「新しさ」であることを繰り返し主張していく のである。だが井上が言うように思想や感情と「詩」が完全に一致した詩形を彼らは作り得ただろうか、という疑問が『新体詩抄』の「新体詩」なるものを読んでいくと湧いてくるのだ。もちろんそれらの「新体詩」一つずつを検討する労力は報告者にはない。だが「新体詩」の例を一つ取り上げることにする。というの も『新体詩抄』に掲載された詩群たちは、同時代的に見ても、現在の我々の側から見ても、奇異な印象が拭えないからである。ここで取り上げるのは、外山正一が書いた「社会学の原理に題す」という「新体詩」である。この詩が特徴的なのは、やはり詩自身の〈長さ〉と「思想」や「感情」を全て含意してなければ気が済まないような、書き手の姿勢である。その一部分を引用してみよう。

 宇宙の事ハ彼此の 別を論せず諸共に/規律の無きハあらぬかし 天に懸れる日月や/微かに見ゆる星とても 動くハ共に引力と/云へる力のある故ぞ 其引 力の働ハ/又定まれる法ありて 猥りに引けるものならず/且つ天体の歴廻れる 行道とても同じこと/必ず定まりあるものぞ 又雨風や雪や/地震の如く乱暴 に 外面ハ見ゆるものとても/一に定まれる法ハあり 野山に生ふる草木や/地をハふ虫や四足や 空翔けりゆく鳥類も/其組織より動作まで 都て規律のある ものぞ/……愚かなことよ万物の/霊とも云へる人とても 今の体も脳力も/元を質せば一様に 一代増に少しづゝ/積みかさなれる結果ぞと 今古無双の濶眼 で/見極めたるハこれぞこれ アリストートル、ニウトンに/優すも劣らぬ脳力の ダルウヰン氏の発明ぞ/これに劣らぬスペンセル 同じ道理を拡張し/化醇 の法で進むのハ まのあたりみる草木や/動物而已にあらずして 凡そありとあらゆるものハ/活物死物夫而已か……そも社会とハ何ものぞ 其発達は如何なる ぞ/其結構に作用に 社会の種類如何なるや(後略)[14]

この外山の「新体詩」はほとんど連続した「思想」の〈説明〉になっており、その〈長さ〉によって「社会学」の原理を伝えようとする外山自身の意図が見受けら れよう。〈説明する詩〉とはすなわち坪井秀人が言うように「教化する詩」なのだ。つまり知的ヘゲモニーのイニシアティブを「詩」という手法を用いて自らの 手に把握し、教化する側/教化される側の関係を強制的に作り上げていくのである。それが『新体詩抄』の編者たちの一つの思惑であったことは確かである[15]。だがやはり『新体詩抄』の「新体詩」は、その「奇異さ」のために様々な方面から反発を受けることになる。例えば桂園派の流れをくむ歌人である池袋清風は、次のように「新体詩」を批判している。

数年前某氏余ニ贈ルニ一冊ノ書ヲ以テス。余取テ之ヲ見レバ新体詩ノ名アリ。試ニ之ヲ繙キテ其ノ一斑ヲ窺ニ詩ニモアラス歌ニモアラス又文章ニモアラス。而モ 其辞甚鄙晒ニシテ読ムニ堪エス。……今茲ニ贅セス余此新体詩ヲ評セバ恰モ草木ナキ墓石原ヲ視るガ如ク或ハ枯木ヲ種テ作リタル庭園ノ如ク死枯ノ感覚ヲ生ズル ガ為ニ忽厭忌の頭痛ヲ発セリ[16]

清風には「新体詩」とは「読ムニ堪エ」ないものとして映り、俗語も文語も雑多に使用する「新体詩」の立場に激しい反発がここからは読み取れるだろう。だが当 事者である井上たちはこの雑多な言語体系を使いながら、「詩」を〈読む〉ものとして捉えていたわけではなく、〈わかりやすさ〉を伝達するために「音調」と いう手法を編み出すのだ。その典型が「抜刀隊の詩」という『新体詩抄』に収められた外山が作った「新体詩」である。それは後に「軍歌」として口ずさまれる ほど浸透していくわけだが、そこには「音調」によって〈意味〉を伝達していく欲望が働いている。「我ハ官軍我敵ハ 天地容れざる朝敵ぞ」とか「敵の亡びる 夫迄は 進めや進め諸共に/玉ちる剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし」というフレーズは、「音」を伴いながら「詩」としての〈わかりやすさ〉を伝達して いく役割を担ったのだった[17]。『新体詩抄』が産み落としたものはそのような〈長さ〉と〈わかりやすさ〉に集約された「詩」の概念を構築したことにあるのだ。では「新体詩」はどこへ向かって 行くのだろうか。国木田独歩は「新体詩」の意義を高く評価しながら、次のように高らかに希望に満ちあふれた「新体詩」の行く末を宣言している。

されど時は来れり、西南の乱を寝物語に聞きし小児も今は堂々たる丈夫となり。……斯くて時は来れり。新体詩は兎にも角にも、新日本の青年輩が其燃ゆる如き 情想を洩らすに唯一の詩体として用ゐらる可き時は徐ろに熟したり。……是に於てか余は新体詩が今後我国の文学に及ぼす結果の、予想外に絶大なるべきを信 ず。日本の精神的文明の上に著しき影響を與ふるものは、今後必ず新体詩なるべきを信ず。此新体詩未だ甚だ幼稚なりと雖も、新日本はこれに由りて始めて其詩 歌を得べくなりぬ。……恋するものをして自由に歌わしめよ。歌うて始めて爾の恋は高品のものとならん。悲恋の士よ。歌えよ。爾の歌こそ最も悲しかるべし。 神を仰ぐものよ。歌えよ。爾の信仰火の如くんば、何ぞ黙して坐し、坐して散文をならぶることを得ん。疑ふものよ。爾の懐疑の煩悶を歌へよ。冷やかに眠る勿 れ。貧者よ。爾の不平をもらせ。自由に焦るゝ者よ、高歌して憚る勿れ。代議士よ。爾の演説に於ける引証を統計年鑑より採ることをのみ苦心するなく、時には 詩歌を用ゐて爾の語らんとする真理を飾れ[18]

新体詩」は「新日本」の礎となっていくと独歩は語るわけだが、この言説は井上哲次郎が著した与謝野鉄幹『東西南北』(1896)の序文と深くリンクしている。鉄幹は「小生の詩ハ、即ち小生の詩に御座候」という「自序」の言辞を吐くが、井上も「新体詩」がようやく時代に適う詩形となったことを次のように述べている。

方今我国の文学に於て最も嘱望すべきもの、二あり、何ぞや、曰く、戯曲、曰く、新体詩、是れなり……漢詩は支那の文学なり、我邦の文学にあらず、漢詩を盛んにするは我邦を忘れて支那の力を致すなり、猶直接に之れを云へば、漢詩を作るは我邦人の軽蔑する支那人の糟粕を嘗むるなり、猶も男子と生れ、廉恥の何た るを知れる以上は豈に独り支那人の糟粕のみに恋々たるべけむや、是故に吾人は已に擬古体の和歌を排し、又支那人の余唾に本づく漢詩を廃して、別に我心情を 荒はすべきものを求め、遂に新体詩と称せる国詩を作り出だせり、仮令ひ其成効の如何は未だ予知すべからざるも、已に我邦に於て文学の新区域を開拓せるや疑 なし、初めは新体詩に向ひて攻撃を試み、尚ほ陳腐なる擬古体を挽回せむとするものありたれども、一たび震盪したる激浪は淊々泪々として遂に大潮流を成し、将に底止する所なからむとす[19]

こうして「新体詩」は名もない詩形から、ナショナルな行方を運命づけられた新たな「国詩」としての歩みをその〈名づけ〉を遂行した当事者によって政治的にプ ログラムされていくのであった。だが我々はそのような「新体詩」の側面をわずかに知っただけに過ぎない。不断なる知的欲望が噴出したテクストとしての『新 体詩抄』を知っただけである。だからこの問いかけは未だに明かされていない部分がかなり存在していることを指摘することをここに留めておくことで、本報告 を終えたいと思う。

 

【参考文献】

市村弘正『増補 名づけの精神史』平凡社ライブラリー、1996年。

絓秀美『日本近代文学の〈誕生〉』太田出版、1995年。

品田悦一『万葉集の発明』新曜社、2001年。

坪井秀人『声の祝祭』名古屋大学出版会、1997年。

坪井秀人「近代詩史と〈書くこと〉」、『名古屋近代文学研究』12号、1994年。

榊祐一「言語(としての)地形図」、『北海道大学 国語国文研究』108号、1998年。

同「『新体詩抄初編』の視線/言説―「言文一致」論の関係をめぐって―」、『北海道大学 国語国文研究』101号、1995年。

青山英正「『新体詩抄』と明治初期の「歌」、藤井貞和エリス俊子編『創発的言語態』東京大学出版会、2001年。

勝原晴希「新体詩と改良長歌」、『駒澤国文』41号、2004年。

鈴木光保「井上哲次郎と『新体詩抄』」、『名古屋大学 国語国文学』34号、1974年。



[1] 磯前順一「西洋体験・ナショナルアイデンティティ・言表行為」、「井上哲次郎」研究会会報1号、2004年。16~17頁。

[2] 同、14頁。

[3]  この号に寄せられた和田英松の「回想」である「古典講習科時代」によると、古典講習科が設立された目的は、加藤弘之が「当時国学者がだん/\少なくなって行くのを憂へて、今のうちに、将来の国学者を養成して置かなければ、国学者のたねがなくなってしまふ。たゞ西洋の学問ばかり通じて、我国固有の学問を少しも知らないものばかり出来ては、これは国家の一大事だといふお考」からだったと述べている。また和田は当時の試験問題は『古今集』・『神皇正統記』や唐宋八家の詩などが出されたらしい。さらに「実は徒然草などは名も知らなかった程」であり、当時の「古典」形成以前の状況がうかがえる。当時の古典講習科で教授職についていたのは、小中村清矩・久米幹文・岡松甕谷・木村正辞・本居豊穎・物集高見・佐佐木弘綱などである。

[4]井上哲次郎「余と明治文学及び文学者」、『国語と国文学』第11巻8号、1934年。 

[5] このことは「一日尚今居士(引用者―矢田部良吉)ハムレットノ訳詩ヲ示サル、其文俗語ヲ交フト雖モ、反リテ古歌ヤ漢詩ノ解シガタキに勝ル、因リテ余之ヲ歎賞シテ学芸雑誌第六号ニ載ス」(『新体詩抄初編』一五頁)という文章からも裏付けられるだろう。

[6] 市村弘正『増補「名づけ」の精神史』平凡社、1996年。140頁。

[7] 井上前掲論文。

[8] 『新体詩抄初編』凡例1頁。

[9]井上哲次郎新体詩論」。『帝国文学』第三巻1号、1897年。

[10] 同。

[11] 『新体詩抄初編』、序文1頁。なお原文は漢文。読み下しは報告者。

[12] 同、序文7頁。

[13]  同、序文8頁。

[14] 『新体詩抄初編』。34頁。

[15] 坪井秀人「近代詩史と〈書くこと〉」、『名古屋近代文学』12号、一九九四年。坪井は「連続した思想」を切片としてのフレーズとして縫い合わせながら詩を〈書く〉こととは、伝達すべきメッセージの問題が詩形を規定していることにもなると述べている。詳しくは坪井秀人『声の祝祭』(名古屋大学出版会、1997年)を参照

[16] 池袋清風「新体詩批評 一」、『国民之友』第4巻。1889年。

[17]事実、外山が編集した『新体詩歌集』(一八九五)の中には、外山が創作した愛国的な軍歌調の「新体詩」が数多く収められている。この点を考えても『新体詩抄』は「軍歌」の祖でもあるのだ。

[18] 「国木田独歩「独歩吟」序文。『国木田独歩全集』第四巻、改造社、1930年。5-8頁。

[19]井上哲次郎「東西南北序」、『与謝野鉄幹・与謝野晶子集』明治文学全集五一巻、筑摩書房、1967年。1頁。