富士谷御杖における〈言語認識〉

       

 

1.序論―御杖研究の問題点

 富士谷御杖(1768ー1823) は、近世の国学者たちの中でも、彼自身が打ち立てた独自の説を基盤とした歌論とその古典解釈によってその名が知られている人物である。本報告で私はその富士谷御杖の思想を題材の中心として取り上げるわけだが、本題の導入の前提として、富士谷御杖という人が〈国文学史〉や〈国学史〉の中でどのような位置付けが行われてきたのか、ということをおおまかに振り返ることによって、富士谷御杖研究の問題の所在について明らかにすることから始めてみたいと思う。

 〈国学史〉の中での富士谷御杖の地位を象徴的に表しているように思われるのが、津田左右吉が著した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(1921)の中に書かれた次の文章であろう。「普通には国学者とはいわれていないかも知れぬが、真淵宣長の系統の外に立って特殊の思想をもっていたものもあるので、その最も著しいのは富士谷御杖である」(p465)と。また「国文学」の側が見る富士谷御杖の場合はどのようなものであろうか。その例として、御杖の歌論を〈演繹的歌論〉と名付けた久松潜一の言葉からも引用してみよう。

  蘆庵・景樹が古今集を中心としてたゞことうたと調の説とを唱導したと同時に、同じ京都に於て一種特異な歌論を唱えたのが富士谷成章と御杖との歌論であった……富士谷父子の立場は京都にいて中世の学問を深く学んだためもあるが、中世歌学の知識を根抵に持ってしかもただ盲目的に信ずるのみでなく、それを思索的に深める事によってこれを基礎づけようとするも のである。即ち一面から言えば演繹的である。従ってその到達し得た深い境地を実際に即して考えると、かなり独断的なものも多い」(『日本文学評論史 近世・近代篇』、p193)と。

 このように津田や久松は、御杖を当時の国学からしてみれば、かなり〈特殊な思想〉の持ち主であり、その上に立って〈特異な歌論〉を提唱し、その和歌や古典の解釈の方法論も〈独断的〉であった人物として捉えているのは明らかだろう。しかしこのような評価の仕方は、近代の〈国学史〉が、自らを近世国学の〈正統〉的な継承者として認識することによって初めて可能となるものではないだろうか。なぜならば、一体どのような人物のどのような内容の国学思想を、〈正統的〉な思想として規定するのか、という判断を遂行しているのは決して彼岸の地に存在している〈近世国学〉の側ではなく、あくまでも此岸の地にある我々が存在している現代の側の方であるからだ。それ故、S・バーンズ氏の次の指摘は正鵠を射たものであろう。すなわち、〈国学史〉や〈国文学〉が「真淵、宣長国学の創設者として規定することは、理論的にも実証的にも問題がない」わけではないし、さらに言えば「何が国学の正統をなすかという問いは、ある超越的な立場からでしかないと解答が与えられない性格」を有しているものであるにもかかわらず、何か〈正統〉な〈国学思想〉があるはずだと考えて全く恣意的に〈正統的国学〉というものを規定しようとしているのが、〈近代国学研究者の姿〉なのだと。

 以上のように考えるならば、富士谷御杖を取り上げるある一つの目的が見出されてくるだろう。つまり、これまでの〈国学史〉が「賀茂真淵本居宣長平田篤胤」という一つのラインを〈正統〉な 〈国学〉として規定することで、富士谷御杖などの思想が〈特異〉なものであるとしてみなされ、排除されてきた人物を再び〈国学〉の議論の俎上に置くことによって、〈国学史〉がナラティヴとして紡いできた〈国学観〉を批判することが可能となるような地平をささやかながらも切り開くことができる一つの試みとして取り上げるのである。

 しかし私は富士谷御杖が今までの〈国学史〉から疎外されてきた人物であるからという理由のみで、彼の思想を分析し、彼をあたかも〈忘れられた思想家〉として論じることで、本報告を顕彰報告にしたいわけではないし、そのようなことを目的とするつもりは毛頭ない。むしろ御杖の思想的な意義を語る試みは今までの研究史の中で十分に行われてきたことに属している。例えば、土田杏村である。彼は「富士谷御杖は、我国に於いて私の最も尊敬する哲学者芸術評論家の一人だ」(『全集』第十一巻、p40)と語り、そして「彼は国学者と呼ばれるには、その説くところ余りにも哲学的に精緻だ。芸術的に深遠だ。しかしまた単純に哲学者と呼ばれるには、彼の国文の分析は余りにも科学的に徹底したものだ」(同)というように賛辞を惜しまない。さらに杏村は御杖を〈象徴主義〉の先駆者として位置付けるのである。土田杏村がこの文章を書いたのは1920年代のことであるが、御杖に対して何らかの思想的意義を見出そうとする人たちは現在でも存在する。例えば、坂部恵氏は次のように主張する。「言霊をめぐっての御杖の思索」は、「ともすれば情緒に流されがちな日本人にはめずらしい広い視野と透徹した論理」(『仮面の解釈学』、p235)を持っているため、その思想を活用することで広く現代的な課題に対処すべきではないか、と。

 土田杏村や坂部氏に見られるように、彼らは御杖の思想 を〈精緻性〉や〈思弁性〉、あるいは〈論理性〉のある極めて我々に有効的な示唆を与えてくれる人物として称揚するわけだが、しかしこのポジティヴな評価によって御杖を捉えることは、ともすれば危険な議論になりかねない。というのも、これらの評価の仕方も、御杖の思想のどの部分が〈論理性〉に富み、〈精緻〉な議論によって組み立てられた〈思弁〉的な思考がどこで発揮されているか、ということを解釈する行為自体が研究主体に委ねられている事柄だからである。

 仮に富士谷御杖が、彼らの言うように〈論理的〉思考の持ち主であったとしても、そのような捉え方は富士谷御杖という歴史主体とは遊離した状態で議論がなされるだけであり、さらに悪いことには彼の思想のみが一人歩きをしてしまうことになりかねないのではないか。結局のところ、富士谷御杖を〈国学〉から排除し、その〈特異〉な思想を語るにせよ、彼の思想に〈論理性〉を見出す方法にせよ、この二つのベクトルは同じ方向を向かっている性質のものであり、いわばコインの表裏の関係でしかないのである。

 それ故に富士谷御杖を分析の対象とするもう一つの目的は、彼を〈歴史〉から遊離した存在として捉えるのではなく、富士谷御杖を〈思想史〉の文脈に埋め込み直す作業をすることで、彼もまた他の近世における国学者たちが行ったように、〈日本〉という共同体をどのように考え、また、〈和歌〉というものをいかなる存在として構築しようとしていたのか、ということについて若干の考察を試みるのが本報告の主題である。

 

2富士谷御杖における〈神の道〉

 御杖は〈歌の道〉と〈神の道〉との関係性について、 「神道なければ歌道もかなわざ也歌道なければ、神道も全からず。神道は歌道をたすけ歌道は神道をたすく、いづれをかろくいづれを重しとせむ。所詮神道ありての歌道、歌道ありての神道と心うべき事也」(『北辺随脳』、『御杖集』巻2、p262)と彼自身が語るように、それらは密接な関係が考えられていた。ここでは彼がどのような〈神道〉概念を構築していったのかということを明らかにすることで、彼の歌論の理論的前提とも言える〈神の道〉について考察することを試みる。

 その手がかりとなるのが、彼の主著とも言える『古事記燈』(1808)である。御杖はどのように『古事記』というテクストを〈解読〉しようとしたのだろうか。御杖が『古事記』に対する読みの姿勢を獲得することを可能としたものは、『古事記』をどのように読むべきか、という宣長自身の読みの姿勢と深く関わっている。宣長は『古事記伝』の中で、このテクストの性格について次のように指摘している。

  此記は、いさゝかもさかしらを加へずて、古より云伝たるまゝに記されたれば、その意と事と言も相称て、皆上代の実なり……上代の清らかなる正実をなむ、熟らに見得てしあれば、此記を以て、あるが中の最上たる史典と定めて、書紀をば、是が次に立る物ぞ(『本居宣長全集』9巻、p6~7)

 宣長は『古事記』というテクストを、そこに記述された 内容に〈さかしら〉はなく、全て古のまま伝承されているから、その文の〈意と事と言〉は三位一体になって調和していると説く。そして『古事記』に記述されている神々の事跡や天皇の業績は全て〈上代〉が語られた〈史典〉として規定するのである。しかし、御杖はそのような宣長における『古事記』の〈解読〉 の方法をめぐって、批判的再構築を試みるのである。御杖は次のように宣長の『古事記』解釈について批判している。

 此神典をみむやうは、みかどの御はじめはかくのごとくくしびにあやしくおはしゝ、其御すえにましませば、たゞかしこみにかしこみ奉りて、その御おもむけにのみしたがひなば、なにばかりの智も無用のものなり との心にみえたり、これ古事記伝の大意、かつ直毘霊とてかゝれしものゝ意趣なり……げにおのが智を捨てよとなれば、世のさまたげとなるべきいひざまにはあらねど、その説のおこれる所を考ふるに、この神典、いかにみれども思へども、いとあやしき事のみありて、これをとかむとすれど、其の首尾人事に応ぜざるが故に、なかなかかゝる事をたづねむは無益の事也(『御杖集』1巻、p8)

 御杖の宣長に対する批判は、彼自身が『古事記』というテクストをそのまま享受するのではなく、批判的な読解を試みようとしていることを示しているだろう。つまり、御杖は宣長が『古事記』を読んだように読むわけではないのである。このようにして御杖は、独自に『古事記』というテクストに向かい合い、『古事記』に記述されている意味を〈解読〉しようとする。御杖は 『古事記』を「此神典、実録とみては奇怪かぎりなし、しかるにして史とするは、たとへば、火にともしてあたへたるをふきけちたるが如し」(同、p12)とし、『古事記』は〈実録〉が記されたテクストではないものとして定義する。では、『古事記』がそのような性格のものではないとしたら、いかなる性質のものであるのか。彼はつぎのように述べる。

 此上巻は、史のかたちをかりながら史にはあらねば、我が大御国の御はじめは、神武帝にておはしますべきなり……神武帝の御祖は、いかばかり遠く久しくおはしましけん、それはしりがたきにて事たりぬべきをや、とにかくに此帝、この大御国を一統し給ひて天子となし事疑なく、それまではこの一国中、かの八十梟帥がたぐひのごとく、おのがちからちからに地を領じて所々にすみ、いづれを此国の主ともなくてありしなるべし、されば神武帝の御祖も、この帝の御世までは、たゞ一方の魁首にぞおはしましけんとおぼしき也、この故に此上巻のうちに説たまへる天神は、悉神武帝の大御身のうちなる御神気に御名づけましゝものにて、地祇はみな天下衆人の神気なる事うたがひなき事也」(同、p14)

 御杖における『古事記』の解釈論は、『古事記』を〈歴史的真実〉として捉えるものではない。だから彼は神武以前の先祖たちがどのような存在であったかなど知るべき手立ては何もないと主張するのである。それならば『古事記』とは一体どのような書物なのか。彼はそれを神武帝と民衆が各々自らの身体に宿している〈神気〉。すなわちその複雑で様々な欲情が表象されたテクストとして読み替え、認識論的転回を行うのである。つまり御杖は『古事記』を「神武帝の大御身のうちなる御神たちと、天下衆人の身中なる神との、やごとなき道」(同、p17)を説いた〈教え〉の書として理解するのである。では神武帝が作成し伝達しようとした〈教え〉とは何だろうか。彼は『古事記燈』をやや平易にして説明した『神典言霊』で次のように語る。

 おほよそわか御教人をもていはす神をもてをしへ給へるは、五倫の上下にかゝはらす外様の進退もあつからす天下の人を一に帰したるにて、しかもその五倫の外事は神道より生する所なれは、神をしも教の主としよ ろつ人事の大本を握りたまへる也。人事わかれてはかきりなしといへとも、概するに悉く末也。末にかゝつらへは煩にして功うすし本を握れは簡易にして功大なるへし天下古今の人情を掌とせん事たゝ此大本を握るにあるへきそかし(『御杖集』2巻、p22~23)

 つまり御杖が『古事記』を〈解読〉して到達した〈教え〉とは、社会における人倫関係をどのように統一し掌握するかという極めて実践的なものであったと言えるだろう。そして彼は共同体における「天下古今の人情」をどのように結合させるのかという事についての考察を行うのである。それこそ御杖が説く〈神の道〉なのである。御杖は続けて次のように述べる。

 神道とは教の名にあらす人我の間を幽顕とたつるその幽の方をさす名也。顕の方をは人道とはいふ也。これを理欲に配すれは幽路を欲の路とし顕路を理の路とすへし。かの孝悌忠信等のわさ人倫の間にはやむことをえさる事なれとも、これたゝ人道顕路の事にて神道幽路はことにせるもの也。かく神道は人道とすちをことにするものなるか故に、人道重しといへとも神道にしたかはされは人道もたちかたき也。こゝをもて神道にしたかふことを主としたまへるは、即人道のおもきかゆえなりとしるへし。神道にたにしたかはゝ、これを孝これを忠とみつからもしらすしておのつから忠行全かるへけれは、わか御教忠孝等のをしへなき也。されは畢竟神道とは人欲の路の名としるへし。(同、p23)

 このように御杖は、社会における〈自己〉と〈他者〉と の間を結節する媒介として〈神道〉を捉えているのである。御杖によれば人間の中にある〈理〉が〈人(人道)〉または〈顕〉であり、そして〈欲〉が〈神(神道)〉または〈幽〉と呼ばれるものである。社会の人倫関係上において〈理〉が前に出てしまうのは、ある程度仕方のないことであるが、そこに〈神道〉すなわち〈欲〉に〈幽路〉という道を与えなければ、社会における彼我の関係は必ずしも補完されないものだと説くのである。つまり御杖は、〈自己〉と〈他者〉の中に存在する複雑な欲情を結合させ、人倫関係を円滑なものとするために、〈神道〉概念を同じ〈国学〉という言説空間に属していながらも新たな解釈を施したものだと言えよう。

 このように考えれば、御杖は社会の〈自己〉と〈他者〉の関係において互いに有している〈欲〉に道を与える神道を、「上は天下国家ををさむるより士農工商の諸行諸道の学業なほ遊民の諸伎乞兒物こふ」(『御杖集』巻1、p67) までをも貫く社会的秩序として再構築し、その社会的秩序を維持する方法論を『古事記』を通して見出したと考えることが出来る。そしてまたこの難解で複雑な御杖が構築した人倫関係を結合することを目的とした〈神道〉概念は、彼の歌論においても深い影響を及ぼしているのである。

 

3.〈神〉を〈感通〉させること―御杖歌論が向かうもの

 富士谷御杖という人物が取り上げられる際、次の『古事記燈』の「言霊弁」冒頭の文章が、多くの研究者たちによって引用されてきた。彼は次のように言う。

 稚かりし時より、父が志にしたがひて歌よみならひし に、成元(御杖のこと―引用者注)十二歳なりし時父をうしなひつれば、たゞ父がつくりのこせりし脚結抄をば師として、歌をのみよみわたりしに、ふと思へらく、此詠歌、たゞもてあそびぐさならば、なにわざにもあれ我も人も益あらむわざをせん、もしあるべきわざならば、いよいよ志を固くせんとおもひて…(『御杖集』1巻、p20)

 この文章に出会った人たちは、御杖が幼い頃に父を亡くした悲しみを思う人もいれば、御杖の思想における成章の影響を考える人もいるだろう。しかしここで考えたいのは、御杖が「此詠歌、たゞもてあそびぐさならば、なにわざにもあれ我も人も」と語っているように、彼は和歌をどのような社会的効用をもたらす存在として構築したのかということである。

 御杖は人間という主体を〈理〉と〈欲〉が複雑に絡み合った存在として捉える。この複雑で様々な葛藤を内面化している存在としての人間は、まずもって〈自己〉の〈外部〉に接触している社会に対してこの〈欲情〉を抑制しなければならない。そこで御杖はこの〈自己〉にある〈所思欲情〉をいかにして解消するのか、という課題を立てるのである。その課題を解決するものとして彼は〈歌の道〉を考える。御杖は人間の中に存在する〈神〉である〈所思欲情〉をそのまま言葉にして出してしまえば、おそらく社会の人倫関係は即座に瓦解してしまうことを予測していた。だから、御杖は主体における発話行為の公的な側面について考えることから、その歌論を出発させるのである。御杖はそれを〈時〉とか〈時宜〉と呼んでいる。

 〈時〉とは、「物にふれ事にあたる実況にして、わが情の言行にいだしがたき時」(2巻・p353) と述べているように、主体が社会的な状況に置かれている状況のことを指しており、そこでは自らの〈情〉は〈言行〉に出す術を持たない。この〈時〉に接触している主体が持っている情緒的疎外感を御杖は〈偏心〉と言い、その一段高い情緒的レベルを〈一向心〉と呼んでいる。つまり、富士谷御杖の歌論が最初に向かうところは、人はいかにして〈時〉を破らずに〈偏心〉や〈一向心〉を制止することが可能なのか、ということである。そこで求められたのが〈歌〉であった。御杖 は『真言弁』(1793)の中で次のように語る。

 よに物むつかりする人その憤を発せは時宜かならすしかるへからすとおもひしれとなほ欝情おさへかたき時なにゝてもあれものひとつなけうち破却なとするに忽その鬱情とけてむつかりを為にいつへからぬ時を全うせらるゝことありこれそ能欝情のかたちの破却せし物に見ゆるか故にむつかりもなくさむなき歌すなはちこれにひとしく時をやふりなむとする一向心のかたちを 歌に見る時は欝結せるいきほひしけて時宜をも全うせむとす神道はひとへ心をすかして時にたかはしとする教歌道はひたふる心をなくさめて時を全うせむとする教にて此ふたつの恩人の身心においていかはかりそや。(『御杖集』2巻、p192)

 御杖にとって〈一向心〉というものは、無理に制止して内部に押し込めると、「或は病となり或は乱心し或は出奔しあるひは自殺するにいたる」(1巻、p63) ほど激しいものであり、自分でも抑制困難な存在であった。その〈一向心〉を慰めて鎮める方法が、〈和歌〉であったということが出来るだろう。しかし、〈神〉である〈欲情〉を鎮魂するだけでは和歌の社会的存立基盤を語ったことにはならない。問題は〈自己〉が有している複雑で激しい〈神〉を〈他者〉に対してどのように表現して伝達するのかということである。ここから御杖歌論の容貌は、社会に〈神〉を伝達するコミュニケーション理論へとその姿を変えていく。

 御杖は〈自己〉の〈神〉を公的な発話行為(〈直言〉) に依拠して語るならば、必ず社会と接触しているところの〈時〉を破ってしまうという。では、〈時〉を破らずに自らの〈神〉を〈他者〉にどのように伝達すればいいのか。そこで御杖は和歌が持っている独特な詩的言語機能を信じ、〈時〉を破らない方法を見出したのである。すなわち〈言霊〉と〈倒語〉を根拠としながら〈自己〉の〈神〉を伝えるのである。御杖は〈言霊〉の不思議な機能について『真言弁』(1793)の中で次のように語る。

 言霊とは言のうちにこもりて活用の妙をたもちたる物を申す也……おもふに言に霊ある時はその霊おのつからわか所思をたすけて神人に通し不思議の幸をもうへき事わか国詠歌の詮たる所なりさてその霊となる はいかなる物そといふに所欲のすぢは為にいつへからぬ時宜のその時宜にかなへむことのかたさにせめて歌によみてひたふる心をなくさめむとする心これなりさる心より歌のなり出たるなれは言のうちにその時やむことをえさるとひたふる心のえさるさまおのつからとゝまりて霊とはなるにて候。(『御杖集』2巻、p212)

 この引用が示唆しているのは、日常世界のように〈理〉 が支配している世界では〈欲〉を出して表現する事は許されない。ただし〈欲情〉の発話はただ詠歌によってのみ許されるものであるということであろう。その詠歌という行為を保障するのが、彼の言う〈言霊〉である。しかし、〈言霊〉はただむやみに自らの〈所思欲情〉を和歌という日常とは次元を異にする詩的世界の中で表現するために存在しているわけではない。なぜなら、彼によればそのまま〈歌〉に託して表現することでさえ、それは〈時〉を破ってしまう行為なのである。そこで御杖は〈時〉を破らない表現手段として〈倒語〉という概念を打ち出すのである。詠歌を〈倒語〉することで、和歌はその〈不測の妙用〉を獲得できるのである。御杖は次のように語る。

 倒語は、いふといはざるとの間のものにて、所思をいへるかとみれば思わぬ事をいへり、その事のうへかと見ればさにあらざる、是倒語の肝要なり……されば所思を直としおきて倒語だにせば、それ即神の言なるべきなり(『御杖集』1巻、p22~3)

 このようにして御杖は、自らの〈所思欲情〉である 〈神〉をいかにして〈公理〉が支配する日常世界の〈時〉を破らずに伝達するのか、という課題を立てながらその解決策として、和歌の持つ〈言霊〉という詩的言語機能と〈倒語〉という表現方法にその可能性を見出したのである。そしてこの歌論が行き着く場所は、この〈自己〉の〈神〉と〈他者〉とが、行き交い共有できるような社会的共同性の構築ではなかったかと考えられるのである。なぜなら、富士谷御杖の歌論テクストには、〈感動〉とか〈感通〉という言葉を多言しているからである。御杖は、〈感通〉の効用を次のような例えを出して説いている。

 感通のかたきは身の所置おろかなる所あれは也かたからぬは身の所置ねもころなれは也たとへは梅干といふものを人のくふを見れは我口たちまち酸気生すこれ感通のちかきためし也さるはその人不言にして酸気を堪つゝくふ故に見る人これに感するにて元来人に酸からせんとてくふにはあらぬをおもふへしかへすかへす感通は堪へからぬ時宜を全うするに得へき事必せることなれはおほつかなきものゝいとたのもしきことならすや。(『御杖集』2巻、p230)

 御杖は、梅干を食べる人を見ただけで自分の口が酸っぱくなるという例えを引用し、〈自己〉の〈神〉、〈他者〉の〈神〉とが〈言霊〉を媒介としながら、互いに〈感通〉することが可能となるような社会的主体を構築したかったのではないだろうか。というのも、彼の歌論はまた政治というきわめて社会的な行為にも関心を向けているからである。御杖は『真言弁』の中で政治について次のように述べる。

 道理によりて私を制する人と神道歌道に私を制する人とはその下にをる民の心いかはかりたかふへき道理をもて下にのそむに服せすといふ事はなけれと民もまたことわりをもて上にむかふへし真をもて下にのそむは いとおほつかなきやうなれと民もまた赤心をもて上にむかふへし真をしれる人の下にをれはたのしみ道理をたつとふ人の下にをれはつねにうしろめたきことこれ 民の心のつねなり。(同、p223)

 このように御杖歌論が目指したのは、〈自己〉の〈神〉 を〈倒語〉することでその〈一向心〉を解消し、同時にまたその〈神〉が〈言霊〉を媒介物としながら和歌に表現することで、社会に伝達して〈他者〉の〈神〉 との〈感通〉が可能となるような主体を構築することにあったと言うことが出来るように思われる。晩年における富士谷御杖は、彼の弁明の書物とも言える『神明憑談(かみがかり)』の冒頭に「今よの人の心になき事ともをいへは人皆神かゝりとやきらむとてなむ」と語り、同時代における思想空間からその思想が〈神かゝり〉という レッテルを貼られ、思想的疎外感を自ら感じていたことは確かであろう。しかしだからといって、彼の思想が〈特異〉な思想として評価するのはやや早計なことのように思われる。むしろ重要なのは、富士谷御杖という人物を同時代の文脈に置いた場合、どのようにその思想が捉えることが可能となるのかということであろう。 そのことは本居宣長にしても同様のことが言えるように思われる。従来のように〈すなほ人〉である本居宣長と、〈ねじけ人〉である富士谷御杖という形で対比して語るのではなく、あくまでも〈国学〉というある一つの思想の磁場から捉え直す必要性があるだろう。そのような作業を行うことで、近世歌論の生産的な理解が生まれてくるのではないだろうか。

4.結びに代えて

 ここまで私は、富士谷御杖の思想を漠然としながらもたどってきた。今回の報告では、彼の思想のアウトラインを自分なりに描こうとしただけであり、御杖における『古事記』解釈や歌論を通して行った議論の内容に関しては、やや説明不足の感があり、もう少し掘り下げて検討する必要性は当然あるだろう。そしてもう一つ富士谷御杖を通じて考えさせられたことは、本居宣長の〈もののあはれ〉論が内在していた構造についてである。

 私は、宣長の〈もののあはれ〉論が(美-的)共同体を構築しようと試みた思想であると今でも考えている。しかし問題とすべきなのは、宣長と御杖との間では、たとえ同じように共同性なるものを立ち上げようとしていたにしても、それを構築する原理や過程自体が全く異なるものではないか、ということである。それ自体が近世歌学の〈差異〉と〈共有〉の関係性をその部分を明らかにすることによって、近世歌論におけるポリフォニックで〈多声性〉の磁場がわかるのではないだろうか。

さらに言えるのは、やはり漢詩論の問題と富士谷成章(1738ー1779)との関りの問題である。事実、富士谷成章は歌学の変遷を説いた『六運略図』などは本居宣長に絶賛をうけた話は有名だが、清田儋叟(1738ー1785)・皆川淇園(1735ー1807)・富士谷成章が『三先生一夜百詠』(1795)という和歌と漢詩を交互に吟詠した書物があり、また彼自身「吟候社」という詩社をつくった。そのような意味で言えば、詩論と歌論は切っても切り離せないものだろう。まだまだ不勉強なところがあるが、史料調査などを加味しつつ、こらからの課題としたい。

【参考史料】

三宅清編『新編富士谷御杖全集』1・2・4・7巻。

『土田杏村全集』第十一巻。

津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』

 

【参考文献】

三宅清『富士谷御杖三省堂、1942年。

坂部恵『仮面の解釈学』東京大学出版会、1976年

東より子『宣長神学の構造』ぺりかん社、1999年。

村井紀『文字の抑圧』青弓社、1989年。

百川敬仁『内なる宣長東京大学出版会、1987年

清水正之『国学の他者像』ぺりかん社、2005年。

友常勉『始原と反復』三元社、2007年。

子安宣邦『「宣長問題」とは何か』ちくま学芸文庫、2000年。

同『本居宣長岩波現代文庫、2001年。

同『江戸思想史講義』岩波現代文庫、2010年

(ボツ原稿を加筆修正したものの、どこにも出せなかったものを再掲)