磯前順一『宗教概念あるいは宗教学の死』

宗教概念あるいは宗教学の死

宗教概念あるいは宗教学の死

カテゴリー自体が、題名と乖離しているかもしれないですが、便宜上こう分類するしかありませんでした。

論点は、僕がカバーできるものではないので、思いついたことを書き散らしたものです。辛口になっているのはご容赦ください。

著者の仕事に僕も感化されてきたのですが、下記のものは代表的なものでしょう。

喪失とノスタルジア - 近代日本の余白へ

喪失とノスタルジア - 近代日本の余白へ

『喪失とノスタルジア』を読んだ当初は、「これはすごい」というタグ付けをしたくなるくらいの衝撃を受けたのですが、あとで自ら反芻すればするほど、磯前さんの議論からは若干距離を置くようになりました。(をい)

その理由については、自分の中でも実はいまも言語化できていません。その違和感の所在も探すために著者の新刊を手にとった次第です。

ひとつ状況証拠的に言えるのは、近代知研究が持つ意味合いが、当初ほどのインパクトはないということ。出版状況を見ても、いまでも参照すべき近代知研究の著作が「現代の古典化」という形をすでに取っている著作もいまや多くなっていることでしょうか。

また、自分の関心から引きつけてで言うなら、最近は江戸思想の世界に沈潜してしまい、近代知研究を必要に迫られて読むことはあっても、「理論」が「理論」たるべき存在意義でもあるような、尖ったジャックナイフが脳裏に突き刺さるような感覚があまり無くなったことも大きいのかもしれません。

それはいまは棚に上げておきましょう。(上げたままで放置しますけど)

本書は次のように〈宗教学の死〉を宣告しています。

もう一度はっきり告げよう。一度、宗教概念および宗教学は死ななければならない。否、すでに死んでしまったのだ。そのことだけははっきりしている。……いま必要なことは宗教学や文学のもつ未来の可能性を素朴に語ることではない。むしろ、これまで自分たちのアイデンティティを温存させてきた言説の「死」を語る勇気なのである。……そのような自己の死を引き受ける覚悟の中でしか、宗教なるものが転生していく可能性はないように思われる。(p64-p65)

『喪失とノスタルジア』で抱いた違和感は引用した箇所と関係しているかもしれません。下世話な言い方をすれば、都知事閣下をはじめとして、「破壊者は一人でよくてよ」(FF11シャントット先生の名言)という勢いで高等教育制度が揺らいでいて、むしろ学問への〈信〉をいかに回復すべきか、という課題の方がいまは大きいような気がしまして…。かかる近代知における言遂行的作業を内省したうえですけど……。

だとしたら、〈宗教学の死〉をすべて引き受けたうえで、いかに再生するのかという意味での〈宗教学としての可能性〉について、著者はどう語るのかなぁと思って読んでいたのですが、あまりそのことには触れていなかったので、消化不良というか。

その意味で秘孔をついたまま、死にゆくキャラの「喪の作業」はしないところに違和感が残ったままでした。そこまで言うのであれば、北斗の拳の老人が言うような「今日より明日なんじゃ」というところも見せてほしかったという読後感としてメモっておきます。

※このエントリは「ネットリテラシー」をちゃんと守り、自らの目で本書を読むことを強くおススメします。意見には個人差があります。