佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』(2)

旧体制の中国において、支配者と被支配者を分かつ指標は文化能力と道徳能力の有無であり、支配の本質は、有徳者による民の教化であると観念されていた。皇帝を補翼して民の教化に当たる官僚は、それにふさわしい文化能力と道徳能力を持たなくてはならない。科挙が定型的な詩文作成の能力を問うのは、受験者の文化能力の有無を検証するためであり、儒教経書の知識を問うのは、受験者の道徳能力の有無を検証するためであった。科挙合格者は、傑出した文化担当資格と道徳資格を有することを社会的に認知された。誇り高い人々であり、そのような人々が官職を与えられ、一定の任期をもって全国の隅々にまで派遣されてその地域の行政と司法を担当し、その地位は決して世襲されないというのが、ヴォルテールすら感嘆した中国の官僚政治システムだった。この官僚政治システムにおいて、官僚に求められたのは文化能力と道徳能力のみであり、近代官僚制において必須とされる専門知識(例えば法律知識)の有無は、科挙においてまったく問われることはなかった。区々たる専門行政知識によってでなく、全人的な文化能力と道徳能力によって民を導くことこそ、官僚のあるべき姿と考えられていたからである。その意味で、行政の専門家であることではなく、むしろ逆に専門家でないことが、旧体制の中国における官僚の理想の姿であった。(p12-p13)