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丸山眞男『「文明論之概略」を読む』上巻―〈鏡像〉としての福沢論―

レジュメ

文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)

文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)


                        
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国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと――福沢諭吉という一個の人間が日本思想史に出現したことの意味はかかって此処にあるとすらいえる。……若し日本が近代国家として正常な発展をすべきならば、これまで政治的秩序に対して単なる受動的服従以上のことを知らなかった国民大衆に対し、国家構成員としての主体的能動的地位を自覚せしめ、それによって、国家的政治的なるものを外的環境から個人の内面的意識の裡にとり込むという巨大な任務が、指導的思想家の何人かによって遂行されなければならぬのである。福沢は驚くべき旺盛な闘志を以て、この未曾有の問題に立ち向った第一人者であった。―丸山眞男「福沢に於ける秩序と人間」


いかなる思想、いかなる世界観にせよ、その内容の進歩的たると反動的たるとを問わず、自由の弁証法を無視し、自己のイデオロギーの劃一的支配をめざす限り、それは福沢にとって人類進歩の敵であった。彼はルソーに反し、又あらゆる狂信的革命家に反し、「自由は強制されえない」事を確信したればこそ、人民にいかなる絶対的価値をも押し付ける事なく、彼等を多元的な価値の前に立たせて自ら思考しつつ、選択させ、自由への途を自主的に歩ませることに己れの終生の任務を見出したのであった。―丸山眞男福沢諭吉の哲学」


「議論の本位を定る事」の論旨が、どういう意味で本書の全体を貫く執拗低音として流れているか、ということは、読み進むにつれて追い追い明らかになるはずですが、すくなくとも価値判断の相対性という一見何でもないテーゼが、あれも結構これも結構といって態度をあいまいにするオポチュニズムとか、どうせどっちに転んでも大した違いはないや、といった傍観あるいはシラケ相対主義とは正反対の意味合いを持っているらしいぞ――という見当くらいはつくと思います。―丸山眞男『「文明論之概略」を読む』



【本報告の構成】
1.はじめに
2.変革する意思/〈主体〉になること
3.〈状況的思考〉と〈機会主義〉―「議論の本位を定る事」
4.丸山眞男における〈惑溺〉
5.おわりに

1.はじめに

惚れた恋人には「あばたもえくぼ」に映る危険は確かにある。しかし、とことんまで惚れてはじめてみえてくる恋人の真実――つまり、電車の反対側の席に座っている美人を見ているだけの目には、況やはじめから超越的な批判のまなざしで判断する者には、ついに到達できない真実――というものもあるのではなかろうか。……そうして、とことんまで惚れてはじめて見えてきた対象の真実は、一時ほどの熱がたとえ醒めたあとでも、持続的な刻印として当人の頭脳と胸奥に残るものなのである。*1

本報告の目的は、丸山眞男(1914−1996)の主著ともいえる『「文明論之概略」を読む』(岩波文庫、上・中・下巻、1986年刊行、以下『読む』と呼ぶ)を糸口にして、丸山眞男福沢諭吉論をめぐる問題のあり方について、若干の考察を加えることである。『読む』は、もちろん、福沢諭吉の『文明論之概略』(1875)に基づく講義録であるが、また分量としても膨大であるため、ここでは内容の要約は最小限に留め、本書のエッセンスを導びかれる形で、丸山眞男の福沢論を通して、丸山思想史のあり方について考えていきたい。

まず、本書の基本的事項について確認しておきたい。丸山が『文明論之概略』の輪読講義をはじめたのは、1977年7月であり、講義を終えたのが81年3月である。丸山は、71年の時点で、68年の安保闘争を契機に体調を崩して、定年を待たずに東大を退官しており、さらに、1972年には、「歴史意識の「古層」」をすでに発表していた。この講義をはさんで、80年には「闇斎学と闇斎学派」を発表している。本書の刊行は1986年であるが、実際に講義が行われた時期については留意しておく必要があるだろう。

つまり、『読む』のもととなった講義そのものは、丸山自身がすでにアカデミズムからは距離を置いた時期にあたり、また市民向けの講義であるため、明確な言葉で、自らの学問的来歴と、その思想史的方法を語りかけている。引用した冒頭の文章は、丸山の福沢論が、丸山自身を映し出す〈鏡像〉であることを示している。故に『読む』は、丸山が述べるように、〈福沢諭吉研究〉という性質ではなく、むしろ『文明論之概略』の読解に織り込ませながら、丸山自身が思想史的方法について言及しているという意味で、やはり重要なテクストだといえよう。

本書が丸山の思想史的テクストとして考察すべき課題は、丸山の福沢論自体が、契機となる時期ごとにその相貌を変えていることである。中野敏男は、丸山自身の言説自体が、「一貫してコンテクスト依存的な意味内容をもち、また、それ自体もコンテクスト形成的な作用を生み出してきている」*2 と指摘しているが、その意味で、丸山における福沢論を考えるということは、丸山思想史の諸契機との関わり方が、福沢論を通して、自我を映し出す〈鏡像〉のように、最もあらわれているからである。以下ではこのことを踏まえながら、丸山における〈鏡像〉としての福沢論について、考えていきたい。

2.変革する意思/〈主体〉になること

ここでは、丸山の戦時期の言説を参照にして、丸山の思想を概観したい。近年の丸山に関する研究は、数多くの成果を生み出している。*3論者によって、色合いが違うとはいえ、90年代における総力戦体制論と国民国家論に依拠しながら、丸山眞男の戦時期の言説について検証作業は、やはり重要だと思われる。従来の研究においては、そのことを丸山における〈転向〉という問題として指摘している。しかし、丸山自身は、流動的な状況で刻々と変化する〈現実〉の所与性だけが既成事実化し、また〈現実〉における価値が一元化していくあり方を否定しているのである。

現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。……ああ一体どこまで行ったら既成事実への屈服という私達の無窮動(ベルベトゥーム・モビーレ)は終止符に来るのでしょうか (傍点ママ―報告者注)。*4

こうした現実観の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしょう。……私達は観念論という非難にたじろかず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じないものです。*5

このような、〈現実〉をめぐる諸契機の流動性に介入していく〈主体〉という言説は、すでに丸山の初期の著作に介在していた。学生自治会である「緑会」の論文公募に応じて提出した「政治学に於ける国家の概念」(1936年執筆。以下、緑会論文と呼ぶ)において、丸山は〈現実〉における諸契機の流動性、そしてその〈主体〉について、次のように述べている。

我々の思惟を拘束する存在乃至社会的実在は決して静止的な「社会一般」ではない。それは生成し発展し消滅する具体的な社会である。従って先ず第一にそれは歴史性を担っている。そうして思惟の帰属する社会の歴史性は当然に思惟そのものに歴史的な刻印を押すのである。……社会は対立し抗争し反撥する諸社会層の弁証法的な統一であり、かかるものとしてのみ具体的である。従って社会的思惟も抽象的統一としての社会全体に帰属することは出来ない。常に特定の社会層を担い手とする事によって現実性をうる。*6

我々の求めるものは個人か国家かのEntweder-Orderの上に立つ個人的国家主義観でもなければ、個人が等族のなかに埋没してしまう中世的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。*7

「私は政治的思惟の不可避的な歴史的制約を率直にすることから出発する」*8と述べているように、緑会論文を執筆していた時点における丸山は、その政治的状況を自ら承諾しながら、また「否定的独立」としての〈主体〉について示唆している。しかし、それがいかなる〈主体〉なのかは、必ずしも明確になっていたわけではない。『読む』によれば、丸山と福沢との邂逅は、この緑会論文の直後に訪れている。それは、丸山眞男の〈鏡像〉としての福沢論が形成される端緒でもあった。

ともかく福沢を読みはじめると、猛烈に面白くてたまらない。面白いというより、痛快々々という感じです。そういう感じは今からはほとんど想像できないくらいです。とくに『学問のすすめ』と、この『文明論之概略』は、一行一行がまさに私の生きている時代への痛烈な批判のように読めて、痛快の連続でした。……ともかく、少なくとも戦争が終わるときまでに、日本の思想家のなかで自分なりに本当によく勉強したなあと思えるのは、さきほどの荻生徂徠とこの福沢諭吉だったというわけです。*9

もちろん、「私の生きた時代への痛烈な批判」という丸山の発言は、緑会論文を検証したように、事後的な自己弁明でしかない。それは従来の研究で指摘されてきたように、かかる自己弁明は、丸山自身の戦前と戦後によこたわる〈隠蔽〉や〈断絶〉であろう。しかし、少なくとも丸山の言説に即して考えるのであれば、別の視点から考えることもできよう。つまり丸山は、具体的な状況において、多元的で流動的な価値を選び、また状況を変革する意思を持ちながら、自ら〈主体〉になること―つまり〈作為〉をめぐる思惟―については、やはり戦前も戦後も、自ら断念することなく、一貫していたのではないか、と。戦時期に丸山がノートに書き付けた断想からは、そのことがうかがえる。

Organizationはその組織を担つてゐる人々が、行動の各瞬間に恰もはじめて新しい問題に対する如くに決断しつゝ組織を動かしている限り、進歩的であり、生命がある。……Substanzbegriffに対するFunktionsbegriffの反逆(カッシーラーの「実体概念と関数概念」によるものと思われる―報告者注)は、新しい決断によつて組織に新鮮な血を通はさうとする努力である (傍点ママ―報告者注)。*10

素材に一定の意味を与へ、形態づける、formenするのは精神だ。たゞ精神といふと主観的精神乃至個人的意思と連続的にひゞく。……しかし、歴史的ダイナミック、歴史を動かす――といふ主体性に着目するとき、やはり「精神」から出発すべきだと思ふ。「機構」を変革する意思から無前提的に出発してはじめて可能だ (傍点ママ―報告者注)。*11

かかる断想とともに冒頭にあげたエピグラフを想起するならば、福沢に仮託しながら語る戦時期における丸山の〈主体〉をめぐる言説を示唆している。つまり、丸山における戦時期の福沢論は、変革する意思をもつ〈主体〉―つまり〈国民〉になること―が、前景化しているといえるのであり、やはり戦時期ファシズムからは遠くないところにいたというべきだろう。*12

国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと―福沢諭吉という一個の人間が日本思想史に出現したことの意味はかかって此処にあるとすらいえる。……若し日本が近代国家として正常な発展をすべきならば、これまで政治的秩序に対して単なる受動的服従以上のことを知らなかった国民大衆に対し、国家構成員としての主体的能動的地位を自覚せしめ、それによって、国家的政治的なるものを外的環境から個人の内面的意識の裡にとり込むという巨大な任務が、指導的思想家の何人かによって遂行されなければならぬのである。福沢は驚くべき旺盛な闘志を以て、この未曾有の問題に立ち向った第一人者であった。*13

続く文章では、丸山は福沢に仮託して、〈主体〉の自発的な決断を通した国家への道を説いているのだが、もはやそれは丸山自身のナショナリズム論と言っても差し支えないように思われる。

秩序を単に外的所与として受取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換は個人の主体的自由を契機としてのみ成就される。……個人的自主性なき国家的独立は彼には考えることすら出来なかった。国家が個人に対してもはや単なる外部的強制として現れないとすれば、それはあくまで、人格の内面的独立性を媒介としてのみ実現されなければならぬ。福沢は国民にどこまでも、個人個人の自発的な決断を通して国家への道を歩ませたのである。*14

金杭は、「丸山の国民は、なによりもまず、個人が己を取り巻く世界と対峙しようとする決断、つまり個人の実存的な(existential)あり様」*15だと言及しているが、その意味で、丸山は〈現実〉への諸契機に介入し、変革する決断的意思を持つ〈主体〉をいかに〈作為〉するか、という思想的課題こそ、むしろ丸山における実存的な問題とも関わっていたというべきだろう。丸山は、この思惟を変えることはなかった。しかし、丸山における〈鏡像〉としての福沢論は、時代の文脈に依存しながら、意味を変容させるのである。次節では、戦後における福沢論について検討していきたい。

3.〈状況的思考〉と〈機会主義〉―「議論の本位を定る事」

安丸良夫は、戦後知の性格について、それが「戦争体験を経過した批判知」であるため、「もっと原理的な批判性をもった全体知でなければならかった」と指摘している。*161944年、丸山は、「国民主義の「前期的」形成」の執筆途中に召集令状の通知を受けて、朝鮮平壌に応召する。しかし入院し、召集解除になっている。1945年に今度は広島に召集され、8月6日に被爆している。しかし、丸山は平壌での従軍や広島での被爆を含めた戦争体験は、生涯語ることはなかったし、思想として何か論じることもなかった。後年に回顧したものによれば、丸山は昭和天皇に深くコミットしていた〈重臣リベラリズム〉に近かったことを表明しており、新憲法についても天皇制と民主主義との関係は、矛盾したものではないと当時は考えていたという。*17しかし、戦後の丸山は戦後天皇制批判を標榜する〈啓蒙的知識人〉として時代に目されていく。本節では、戦後における福沢論が、論点がスライドされていくあり方に注目しながら、とくに〈状況的思考〉と〈機会主義〉という、福沢論における鍵概念との関わりについて明らかにしていく。丸山は戦後直後に発表した「近代的思惟」(1946)で、丸山は次のように述べている。

我が国に於て近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらないと云う事実はかくて何人の眼にも明かになった。……思想的近代化が封建権力に対する華々しい反抗の形をとらずに、むしろ支配的社会意識の自己分解として進行し来ったところにこの国の著しい特殊性がある。*18

このように高らかに宣言した丸山は、「超国家主義の論理と心理」を分岐点にして、戦後日本における〈啓蒙的知識人〉の最大知性であると受け止められていく。まずは終戦直後に著した、「福沢に於ける「実学」の転回」(1947年執筆。以下、実学論文と呼ぶ)と、「福沢諭吉の哲学」(1947年執筆。以下、哲学論文と呼ぶ)を検討していく。丸山における福沢像については、〈啓蒙〉の概念と分かちがたく結ばれていると言われているが、その〈啓蒙〉への捉え方を問うべきだろう。実学論文において、福沢における〈啓蒙〉について、次のように述べている。

「啓蒙」が時代の課題として取上げられる度ごとに、福沢が呼び出されて来たということはむろん当然の理由がある。彼の生涯は著作や教育活動を通じての民衆の「啓蒙」に捧げられていたといいうるし、又彼の思想的立場が広義に於て啓蒙思潮に連っていたことも疑いえない。しかし福沢の名がこの様につねに啓蒙と結びつけられて来たことは、他面、福沢の思想の哲学的基盤に対する立ち入った吟味を妨げる結果となったことも否定出来ないのである。*19

もとより福沢は狭義の哲学者ではないから、彼の認識論なり価値論なりをそれ自身としてはどこにも提示してはいない。しかし彼の著作の仔細を読むと、そこに一貫してある共通の物の見方、価値づけ方が感知されるのである。そうして、それは他の同時代の啓蒙思想家たちと決して単純に同視しえない、きわめて特徴のあるものである。福沢を単に啓蒙的な合理主義乃至は実証主義、功利主義の名で規定し去ることは――こうした規定はむろん全く間違いとはいえないが――そのニュアンスを殺してしまう結果となる。*20

ここで丸山は福沢を〈啓蒙的知識人〉と捉える態度を峻別しながら、福沢における〈啓蒙〉を捉えていたことがうかがえよう。また断想では丸山は次のように語る。

開かれている精神(オープン・マインドデッドネス)は「開けた(シヴライズド)」精神ではない。福沢諭吉と「開化物」作者との精神のちがいがここにある。「開かれている精神」は自らをも他をも開く作用をいとなむ。……開けた精神は自分がすでに開けていると思うことによって、実は閉じた精神に転化している。日本の啓蒙の失敗は、「開けた精神」によって愚昧な大衆を教化できると信じた点であった。そうして第二の開国であった敗戦後のデモクラシイにおいては、未曾有の国民的な経験から出発しているにもかかわらず、「開けた精神」(マルクス主義をふくめて)の洪水にくらべて、「開かれている精神」の声はあまりにも弱かったことが、いまこそ反省されなければならない。*21

「開かれている精神」として福沢を捉えること。それが丸山における〈啓蒙〉の意味であった。それは丸山における〈機会主義〉への態度決定とも関わっている。哲学論文では、丸山は福沢に仮託しながら、「議論の本位を定る事」について、次のように語る。

まずこのテーゼの意味するところを最も広く理解するならば価値判断の相対性の主張ということに帰するであろう。……むしろ、事物の置かれた具体的環境に応じ、それがもたらす実践的な効果との関連においてはあらかじめ確定されねばならぬ。具体的状況を離れて抽象的に善悪是非をあげつらっても、その議論は空転して無意味である。……議論の本位を定めるとはすなわち、この様に問題を具体的状況に定着させることにほかならない(傍点ママ―報告者注)。*22

丸山は、「問題を具体的状況に定着させる」方法こそ、福沢における〈啓蒙〉的態度だったと捉えるのであり、ゆえに丸山は、いかなる議論でも「時代と場所というsituationを離れて価値決定はなしえない」*23という福沢における〈状況的思考〉こそ、近代日本に最も欠けていた思考様式だったと述べるのである。

福沢はとくに政治論においては状況的思考(situational thinking)を高度に駆使している……こうした方法は彼の政治論が状況的発言だといった事と一見矛盾するように思われるが、状況的思考ということは無原則な機会主義とは全くちがう(後略)。*24

『読む』では、かかる福沢の〈状況的思考〉を、常に価値判断の相対性という課題であると語っているが、それは多元的価値を状況的に自己限定しながら、選択していく態度決定こそ、福沢が掲げた『概略』のテーゼとしての「議論の本位を定る事」の本来的な意味であるという解釈を提示するのである。*25

利害得失の判断より軽重是非の判断の方がむずかしい、というのは、非常に大きな命題で、この書全体に通ずるテーゼの一つです。……利害得失というのは、現実のインタレストに関連してくるから、誰もみな敏感なんですね。集団の利害でも個人の利害でも……。ところが、事柄の軽重是非となると、何が軽く、何が重いかということは、状況の客観的認識にかかわってくる。自分に得か損かということと話がちがって、状況の客観的認識の方がずっとむずかしい(傍点ママ―報告者注)。*26

維新当初の議論のアナーキーとは何とか交通整理しなければならないという必要から、その前提として、何のために議論するのか、その本位を明らかにせよということと、世論に拘泥せずに思うことを勇敢に言えという、その二つの主張が出てくる。この二つは矛盾しないのです。……「議論の本位を定める」ということは、この書物の問題意識について、自己限定することであって、決してこの書物の議論で画一化してしまおうというのではない、その点が大事なのです(傍点ママー報告者注)。*27

このように見れば、冒頭で掲げた二つのエピグラフの意味も明確になるだろう。つまり、丸山は、〈機会主義〉への〈自発的決断〉のあり方として、福沢における〈状況的思考〉という思惟について考察していく。

いかなる思想、いかなる世界観にせよ、その内容の進歩的たると反動的たるとを問わず、自由の弁証法を無視し、自己のイデオロギーの劃一的支配をめざす限り、それは福沢にとって人類進歩の敵であった。彼はルソーに反し、又あらゆる狂信的革命家に反し、「自由は強制されえない」事を確信したればこそ、人民にいかなる絶対的価値をも押し付ける事なく、彼等を多元的な価値の前に立たせて自ら思考しつつ、選択させ、自由への途を自主的に歩ませることに己れの終生の任務を見出したのであった(傍点ママ―報告者注)。*28

「議論の本位を定る事」の論旨が、どういう意味で本書の全体を貫く執拗低音として流れているか、ということは、読み進むにつれて追い追い明らかになるはずですが、すくなくとも価値判断の相対性という一見何でもないテーゼが、あれも結構これも結構といって態度をあいまいにするオポチュニズムとか、どうせどっちに転んでも大した違いはないや、といった傍観あるいはシラケ相対主義とは正反対の意味合いを持っているらしいぞ――という見当くらいはつくと思います(傍点ママ―報告者注)。*29

丸山が福沢論を通しつつ、その〈機会主義〉への批判的まなざしを考えるのであれば、日本の〈能動的性格〉の欠如を摘出し、それを戦前/戦後に一貫する日本の病理として捉えようとしてしたのである。丸山は主要な著作でそのことを繰り返し述べている理由はそこにある。*30丸山は消極的な〈機会主義〉に対する批判を次のように述べる。

現代の主要なイデオロギーと機会主義の関連についていえば、ファシズムは本質的にイデオロギーを権力目的のために手段化するから絶対的機会主義の性格がもっとも濃く、コミュニズムは反対に誤った指導のもとでは妥協能力をうしなって教条主義におちいりやすい。……日本ではオポチュニズムは筒井順慶の名から連想されるように、たんなる形勢観望ないしは大勢順応主義を意味するかのように理解されているが、これはいわば消極的機会主義とでも名づけるべきもので、本来のオポチュニズムは――絶対的なそれをもふくめて――むしろ逆に、局面を素早くつかんでこれを自己に有利な方向に形成しようという能動的性格をそなえたものであることに注意しなければならない。*31

次節では、福沢論の読みから、〈機会主義〉への批判として提起する、〈惑溺〉という概念に着目して、考察を進める。

4.丸山眞男における〈惑溺〉

丸山は福沢論のなかで、〈惑溺〉という用語を、中核的用語だと語っている。丸山がどう読んだかは、改めて検討するが、その前に福沢が〈惑溺〉という用語を、どのように扱ったか、ということを簡単に確認しておきたい。

天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、その内にありて自ら活動を逞うし、人の気質快発にして旧慣に惑溺せず、身躬からその身を支配して他の恩威に依頼せず、躬から徳を脩め躬から智を研き、古を慕わず今を足れりとせず、小安に安んぜずして未来の大成を謀り、進て退かず達して止まらず、学問の道は虚ならずして発明の基を開き、工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし、人智は既に今日に用いてその幾分を余し、以て後日の謀を為すものの如し。これを今の文明という。野蛮半開の有様を去るべし。*32

ここで福沢諭吉が述べる、〈惑溺〉という用語自体について、素朴に解釈すれば、そのまま〈脱亜〉論的なベクトルを内包していたとも読める。丸山自身のアジア認識についての問題性は、しばしば指摘されている。丸山は、福沢論において、次のように自らの言葉として述べている。

国際社会の認識の上にたてば、国家的独立を確保する途が福沢のいわゆる「権道」たらざるをえないのはむしろ当然である。……国家相互の間では過(あやまち)を改めると益々過が評判となり、謝罪すれば益々罪が明白となる。或はそれ程でなくても、此方で落度を認めて遠慮すると敵対国の慢心を助けるだけでなく、世界中に内兜を見透かされて国際的な発言権がそれだけ弱くなるからだ。つまり喰うか喰われるかという緊迫した力関係が支配している所では、何を差措いても自国の政治的実存を全うするということが国際的行動の第一原理とならざるをえない。――このような思考過程を辿りつつ福沢は嘗ての立脚点であった個人間と国家間の規範の同質性を否定することによって、まぎれもなくかの国家理由(raison d'〓tat)と呼ばれるものの認識に到達したのである(傍点ママ―報告者注)。*33

丸山自身のアジア認識の問題については、オリエンタリズム的言説を孕んでいることを指摘するだけに、いまは留めておこう。しかし丸山は福沢のオリエンタリズム的視点については等閑しつつ、続く箇所にて、〈惑溺〉の概念を次のような解説として付している。

「惑溺」という言葉は、福沢の書くものにしばしば出てくる最も重要な中核的(ビヴォタル)用語です。……その説明を日本訳でいいますと、「どう作用するかにかかわらず事物の中に価値が内在している、そういう内在的価値に対する福沢のけなし言葉」というようになっている。……ただ、右の説明についていえば、けなし言葉にはちがいないのですが、惑溺イコール内在的価値ではないのであって、そういう内在的価値を無批判的に信仰することが惑溺なんですね。あるものが、その働き如何にかかわらず、それ自身価値があると思いこむ考え方、それを惑溺といっているのです。*34

〈惑溺〉をめぐる解釈を、丸山は別の箇所では次のように解説している。むしろ、こちらの方が的確だろう。

まず「惑溺」一般の説明をします。あるものを使う本来の目的がどっかへ行ってしまって、そのものの具体的な働きにかかわらず、「もの自体」が貴重とされる。そういう思考傾向を惑溺というのです……つまり働きの方を忘れて、それ自身物として有難がるようになるのが惑溺です。私たちの思考の惰性として、いろいろなところに惑溺が出てきます。いつの間にか、何のためにあるのかという本来の目的を忘れてしまい、手段が自己目的化する。これが「惑溺」の土台というか、下部構造です。*35

丸山自身が福沢の中核的用語として読み出した、〈惑溺〉をめぐる解釈は、別の諸論考でも繰り返し発言している。つまり、丸山における〈惑溺〉とは、〈主体〉における状況に対する〈思考の惰性〉を内省し、選択の決断をするような態度決定という課題と深く関わっているといえる。

福沢は意識的にこういう伝統的な評価(言行一致が尊ばれるような風潮―報告者注)に逆らいます。むしろ逆らうということに自分の思想的な生産の意味を見出していたのではないかと思います。自分の思想的な生産の意味は、そういう思考法ではない思考法を主張することです。まず状況を認識するという態度がなぜ必要か、そこにどういう問題が含まれているかということを、あそこで縷々として述べています。なぜ状況認識の問題にそこまで執着するのかということの一つの根拠がここにあります。精神的惑溺からの解放と関連しているのです。*36

自分の精神の内部に余裕がないから、世の中がある方向に向かっていると、他のことは頭に入らない。ワーッとそっちへ行く。またこっちの方向へ方向が向かうとワーッとこっちへ行くということですから。つまりそれが状況主義的です。そういう単なるオポチュニズムもやはり「惑溺」なのです。世論の凝集性とか浮動性とか……。そういう、思考方法としての惑溺というものを、彼はいちばんに問題にしている。それからの解放がないと精神の独立がない。*37

このように検討するならば、丸山が〈惑溺〉になぜこだわるのかということも見えてくるのではないか。つまり、丸山は一元的価値の状況的埋没を自ら留保しながら、選択を決断してくような態度決定を、福沢に重ねながら読み出していくのである。その意味で、『読む』の冒頭で、丸山が『概略』を〈古典〉として読むことをあえて強調するのも、丸山自身の〈惑溺〉批判として考えることもできよう。

私たちは福沢より一世紀近くもあとの時代に生き、福沢が見られなかった日本と世界の出来事や推移をすでに知っています。ですから、彼に未知であったことが私たちには既知であるという自然の優越地点に立って、福沢の歴史的限界を指摘することは容易であり、私はむしろそうした姿勢のなかにも、前述した「現在主義」にもとづく、ある不遜さが潜んでいないかをおそれます。……そういう先入見を古典に投影すれば、それだけ「現代から自分を隔離する」作業の妨げになるからです(傍点ママ―報告者注)。*38

丸山からすれば、報告者が『文明論之概略』を〈古典〉として読むかどうかも、それは〈内なる決断〉だと言うかもしれない。しかしながら、本報告は、丸山における〈鏡像〉として、その福沢論を読み切ろうとしたことがその全てである。かかる意味において、丸山における福沢論は、丸山自身の思想的来歴そのものだと考えることができる。しかしながら、丸山の思想を考察するうえで、重要なテクストであることは変わりはない。残された課題については輪読を通じて考察されていくことになるだろう。

5.おわりに

本報告では、丸山眞男の福沢論を、丸山自身の〈鏡像〉として読んでいく試みであり、また、『読む』を考察するうえでの、手がかりを提示した。また『読む』を参照にしつつ、その福沢論における思想的問題について論じるものであった。『読む』は、内容要約をするには、かなりの労力が割かれるような性格をもつテクストであるため、エッセンスを抽出するような体裁を今回は取らざるを得なかったが、丸山における福沢論については、その論点を網羅しているわけではないため、別の報告者にそのバトンを引き継ぐことにし、ひとまずここで本報告の筆を擱く次第である。

追記:史料引用での傍点部分の箇所は、転載するにあたり太字に改めた。また、冒頭のエピグラフは、ブログ記事の性格上、註を省略し、該当する引用部分に註を施すように改めた。(7月6日加筆修正)

(2012年度日本思想史研究会6月7日例会報告 文責:岩根卓史)

*1:『読む』上巻。piv。

*2: 中野敏男『大塚久雄丸山眞男―動員、主体、戦争責任』、青土社、2001年。p94。

*3:中野前掲書。酒井直樹『日本思想という問題―翻訳と主体』、岩波書店、1997年。小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本ナショナリズムと公共性』、新曜社、2002年。子安宣邦『日本近代思想批判』、岩波現代文庫、2003年。姜尚中丸山眞男と地政学的まなざし」、『大航海』18号、1997年。米谷匡史「丸山眞男と戦後日本―戦後民主主義の〈始まり〉をめぐって」、『情況』第2期8号、1997年。大澤真幸丸山眞男ファシズム論のネガ」、『情況』第2期8号、1997年。同「近代の彼方」、『思想』988号、2006年。金杭『帝国日本の閾―生と死のはざまに見る』、岩波書店、2010年、杉田敦丸山眞男という多面体」、『丸山眞男セレクション』所収、平凡社ライブラリー、2010年などを参照。また、丸山眞男における思想的可能性を論じたものとしては、苅部直丸山眞男リベラリストの肖像』、岩波文庫、2006年。伊東祐史「丸山眞男と「近代の超克」」、『思想』1039号、2010年。遠山敦『丸山眞男―理念への信』、講談社、2010年などがある。

*4: 丸山眞男「「現実」主義の陥穽」(1952)。『新装版 現代政治の思想と行動』、未来社、1964年。p172。

*5:同。p177。

*6: 丸山眞男「政治学に於ける国家の概念」(1936)。『丸山眞男集』第一巻所収、岩波書店、1996年。p6。

*7:同。p36。

*8: 同。p7。

*9:『読む』上巻。p31

*10:丸山眞男『自己内対話』。以下、『対話』と呼ぶ。みすず書房、1998年。p5-p6。

*11:同。p6

*12: 丸山眞男「国民主義の「前期的」形成」(1944年。『丸山眞男集』第二巻所収)では、冒頭にルナンの議論を意識しながら、〈国民〉になることとはなにか、を論じている。

*13:丸山眞男「福沢に於ける秩序と人間 」(1943)。以下、秩序論文と呼ぶ。『丸山眞男集』第二巻所収、岩波書店、1996年。p220。

*14:前掲。秩序論文。p221。

*15: 金杭『帝国日本の閾―生と死のはざまに見る』、岩波書店、2010年。第三章参照。p64。

*16:安丸良夫「戦後知の変貌」、安丸良夫・喜安朗編『戦後知の可能性―歴史・宗教・民衆』、山川出版社、2010年。p4。

*17:「そこがぼくの甘いところで、なんとなく天皇は、軍部のようなやり方には本当は反対なのだと思っていた。だから、天皇にすべての責任があるというふうにはいかないのです。そのときの考え方は、天皇の問題に直結しない」。『丸山眞男回顧談』下巻、p23。

*18:丸山眞男「近代的思惟」(1946)。『丸山眞男集』第三巻、p4。

*19:丸山眞男「福沢に於ける「実学」の転回」(1947)。『丸山眞男集』第三巻所収、p108。

*20:同。p109。

*21:『対話』。p86。

*22: 丸山眞男福沢諭吉の哲学―とくにその時事批判との関連」(1947)。『丸山眞男集』第三巻所収、p167-p168。

*23: 同。p169。

*24:丸山眞男「『福沢諭吉選集』第四巻 解題」(1952)。以下、「解題」と呼ぶ。丸山眞男福沢諭吉の哲学 他六篇』、松沢弘陽編、岩波文庫、p119-p120。

*25:丸山眞男における多元的価値への参入の論理を積極的に読解したものとして、斎藤純一「丸山眞男における多元化のエートス」、『思想』883号、1998年が参考になる。

*26:『読む』上巻、p69。

*27:『読む』上巻、p90-p91。

*28:丸山眞男福沢諭吉の哲学―とくにその時事批判との関連」(1947)。『丸山眞男集』第三巻所収、岩波書店、1995年。p186。

*29:『読む』上巻。p20。

*30:報告者自身は、丸山における〈機会主義〉批判について、必ずしも与しているわけではない。本報告は思想的継承を語るような場ではなく、むしろ〈戦後日本思想〉における言説を、丸山の論理と思考に即しながら、提起しているのであり、そのことに関しては別の問題だと考えている。

*31:丸山眞男「政治学事典執筆項目 オポチュニズム」(1954)。『丸山眞男集』第六巻所収、p85。

*32: 福沢諭吉文明論之概略』、岩波文庫、p27。

*33:「解題」。p147-p148。

*34:『読む』上巻。p109。

*35:同。p198。

*36:丸山眞男福沢諭吉の人と思想」(1995)。『丸山眞男集』第十五巻所収、p299。

*37: 同。p293。

*38:『読む』上巻。p16-p17。