オクサラ.J『フーコーをどう読むか』(3)

「第7章 抑圧されたセクシュアリティ」より。

権力からの完全な自由など存在しえないが、さまざまに異なる支配状態からの「特定の」解放はありえるし、そうさせることができよう。そう、過酷な権力関係およびある種正常化する技術の影響からの解放は。フーコーによる権力に関するこれらの命題はひとえに、『知への意志』の主題、すなわち、セクシュアリティを再考するための概念的道具として目論まれたものである。……この本は、いわゆる「抑圧仮説」の拒絶をもって始まっている。抑圧仮説とは、ヴィクトリア朝時代、セクシュアリティは抑圧されており、セクシュアリティに関する言説は沈黙を強いられていたという考えのことである。性をめぐる近代社会の第一義的態度を特徴づけるのは抑圧などではない、とフーコーは主張している。むしろ、セクシュアリティは新たな類のディスクール――医学的、法的、心理学的――の対象となり、性をめぐる言説は実際、多様化したのである、と。……こうしてセクシュアリティは、ある人物の道徳的価値のみならず、彼/彼女の健康、欲望、同一性をも決定する本質的構成概念となったのである。主体にはさらに、自らのセクシュアリティの詳細を告白することで、自分自身についての真理を語る義務が生じたのだ。告解という宗教的技術の世俗化によって、近代のセクシュアリティが特徴づけられることをフーコーは証明した。もはや、自身の性的欲望の詳細を司祭に告解することはない。その代わり、人は医師、セラピスト、心理学者、精神科医のところへ行くようになったのだ、と。(p127-p128)