儒家言語論における〈声気〉と〈身体〉―戴震と皆川淇園―

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1.宇宙生成の淵源としての〈気〉

まず本報告で重要な位置を占める〈気〉という概念について確認しておく必要があろう。〈気〉をめぐる定義については、様々な見解があるにせよ、ひとまず〈気〉とは、万物を生成する淵源であるといえる。つまり、〈気〉は活動と変化を絶えず繰り返しながら、〈生命〉を支える間断なく活動してやまない存在であり、また万物生成の根源として宇宙に漂う微粒子である。そのような〈気〉のモチーフは、既に古代中国の書物に見られる。例えば『准南子』からの記述から確認できる。

天墜の未だ形あらざるとき,馮々翼々、洞々濁々たり。故に太始と曰ふ。道、虛廓より生じ、虛廓は宇宙を生じ,宇宙、気を生ず。気に涯垠あり。清陽なる者は薄靡して天と為り、重濁なる者は凝帯して地と為る。清妙は合專するは易く、重濁は凝竭するは難し。故に天先ず成りて地は後に定まる。天地襲精して陰陽を為し,陰陽專精して四時を為し,四時散精して萬物を為す。積陽の熱気は火を生じ,火気の精なるは日を為す。積陰の寒気は水を為し、水気の精なるものは月を為す。(『准南子』天文訓)

『准南子』による記述に示されるように、古代中国における諸家にとって、〈気〉とは宇宙を生成する淵源として見ていたことがうかがえる。また、周敦頤(1017-1073)による『太極図説』の有名な一節からも、宇宙生成のプロセスが語られる。

無極ながらにして太極なり。太極動いて陽を生ず。動極って静なり。静にして陰を生ず。静極って復た動なり。一動一静、互いにその根と為り、陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。陽変じ陰合して、水火木金土を生ず。五気順布して、四時行はる。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極は本と無極なり。五行の生じるは、各々その性を一にす。無極の真、二五の精、妙合して凝り、乾道は男を成し、坤道は女を成す。二気交感して、万物を化生す。万物生生して変化窮まりなし。(『太極図説』)

程伊川(1033-1107)は、「天の気はまた生生して息まず」(『二程遺書』)という。このように、〈気〉は間断なき運動として捉えられてきた。そして〈気〉が生成し交感するがゆえに、〈声〉も同じく生成される。

凡そ物の名字、自づから音義と気理相通ず。その他の体質を以て指論す可きに有り、名を得る者の外を除いては、天が天為る所以の如し。天未だ名づけざる時、本より亦た名無し。只これ蒼蒼然たり。何を以て便ち此の名有らん。蓋し自然の理より出で、音声はその気を発して、遂に此の名此の字有り。今の声を聴くに精しき者は、便ち人の性を知り、卜を善する者は人の姓名を知るが如きは、此の理に由るなり。(『二程遺書』)

〈声〉と〈気〉の関係は、どちらが優位というわけではない。ここで指摘したいのは、中国思想において、〈気〉とは運動そのものであり、また万物の活動を支えているというモチーフである。そして〈声〉はその媒介となり天地を交感し、〈天〉と〈人〉を繋ぐものと捉えられる。故に〈声〉と〈気〉は分離されたものではなく、〈声〉と〈気〉を発散することで、〈生命〉としての活動そのものを表現することが重要視されていた。

転じて中国詩学では、〈声〉が語られるとき、音楽と言語が重なり合うものとして論じられてきた。次節ではそのことを示唆するテクストとして、六朝期に活躍した劉〓(466頃〜532)の『文心雕龍』を取り上げてみたい。

2.起源としての音楽/起源としての詩―『文心雕龍』を題材として―

中国詩学における〈声〉の問題は、音楽と緊密な関係にあるものとして捉えられてきた。『礼記』楽記篇と『詩経』大序は、〈声〉の起源は、また音楽の起源でもあることを記している。

凡そ音の起こるは、人の心によりて生ずるなり。人の心の動くは、物のこれをしてしからしむるなり。物に感じて動く、故に声に形はる。声あひ応ず、故に変を生ず。変じて方を成す、これを音といふ。(『礼記』楽記篇)

情、中に動きて言に形はる。これを言ひて足らず、故にこれを嗟嘆す。これを嗟嘆して足らず、故に永歌す。これを永歌して足らず、手のこれを舞い、足のこれを踏むを知らず。情、声に発し、声、文を成す。これを音といふ。(『詩経』大序)

この「経書」によって理想化された、情に触れ、揺れ動き、〈声〉は生じるというプロセスを詩人たちは共有し、声=音楽/声=言語というモチーフは、中国詩学においては絶対的なものであった。劉〓は『文心彫龍』において次のように語る。

夫れ音律の始まる所は、人声に本づく者なり。声に宮商を含むは、血気より肇まる。先王これに因りて、楽歌を制す。故に知る、器の人声を写したるにて、声の器に效ひしに非ざる者なることを。故に言語は文章の関鍵、神明の枢機にして、律呂を吐納するは、唇吻のみ。(『文心雕龍』声律篇)

劉〓は「声は序を失せず、音以て文を律す」と言う。音楽はその起源として、人間の〈声〉を模倣して作られたものであると語る。つまり、音楽は〈声〉の介在なくしては成立せず、言語もまた〈声〉を介在なくしては成立しないのである。さらに、劉〓は詩の理想的な表現は、音楽としての〈声〉の調和であり、〈吟詠〉の行為の重要性を説く。

是を以て声画の妍蚩は、寄せて吟詠に在り。滋味は字句に流れ、気力は和韻に窮まる。異音相従ふ、これを和と謂ひ、同声相応ずる、これを韻と謂ふ。韻気は一定す、故に余声遣り易し。(『文心雕龍』声律篇)

このように劉〓は〈声〉を音楽と詩の起源として看做し、〈声〉の現前を捉えていく。

和楽の精妙なる、固より表裏して相資く。故に詩は楽の心為り。声は楽の体為ることを知る。楽の体は声に在り、瞽師其の器を調ふることを務む。楽の心は詩に在り、君子宜しく其の文を正すべし。(『文心雕龍』楽府篇)

劉〓のように詩と音楽の起源として〈声〉を捉える解釈は、『詩経』に即したものであり、また後世の詩人や文学理論家も『詩経』を範例としている。本節の眼目は、中国詩学は〈声〉をどのように捉えてきたのかを概観的に示すことであるため、ここで留める。

このような前提を踏まえ、本報告における主題である戴震(1724-1777)と皆川淇園(1734-1807)の思想の考察を試みる。戴震と皆川淇園は〈声〉と〈気〉の関係性を、〈言語〉と〈身体〉の問題として捉え、その思索を深めた。本報告の目的は、儒家言語論という問題を、近世東アジア思想的文脈から考えることである。その意味で「経書を中心とする古代文献の文字面を生きて震える「声」の世界」[木下1996]が、広がる壮大な思想風景を素描するための模索を試みたい。


3.戴震−〈天道〉と〈声韻〉

戴震の思想の焦眉としては、『四庫全書』編纂官として、精神をすり減らす中で著された『孟子字義疎証』(1776)とみて間違いない。その序文で戴震は、『易経』から〈性〉と〈天道〉を見出したと語っている。

余れ少くして論語を読むに、端木氏の言に曰わく、「夫子の文章は得て聞く可き也。夫子の性と天道とを言うは得て聞く可からざる也」と。易を読みて乃ち性と天道とを言うは是に在るを知る。(「孟子字義疎証序」、安田二郎・近藤光男編『戴震集』、p33)

易経』に導かれて、〈性〉と〈天道〉を見出したと顧みる戴震は、〈性〉について次のように言う

蓋し其の静かなるに方って也、未だ物に感ぜず、其の血気心知、端然として失うこと有る無し。故に天の性と曰う。其の感じてに及んでは、則ち欲、性より出ず。(同、p49)

戴震における〈性〉は、〈血気心知〉、つまり身体に張り巡らされた脈々と循環する「生命」であり、「精神」作用のことである。〈血気〉は、絶え間ない「生命」の維持(飲食)を養いながら、運動を続ける身体活動そのものであるといえる。

五行に正剋有り。生なれば則ち相い得、剋なれば則ち相い逆らう。血気の其の養を得ると其の養を失うと、焉に繋れる。外に資りて、以て其の内を養うに足る。此れ皆な陰陽五行の為す所にして、之を外にしては天地の間に盈ち、之を内にしては吾が身に備わる。外内相い得て間無し。而うして養の道備わる。「民は之れ質かに矣、日びに用て飲食す」は、古え自り今に及ぶまで、以て道の経と為す也。血気各おの資りて以て養われ、而して竅を耳目鼻口に開いて以て之を通ず。既に是に于て通ず、故に各おの其の能を成して、職を分ちて之を司る。(同、p75)

また、〈気〉の生成と運行により、生克しあいながら、〈気〉が分化し、その役割が自ずと異なる与えられた役割を果たすのが〈性〉であるということを、戴震は次のように述べる。

凡そ生有るものは、即ち天地の気化より隔たらず。陰陽五行の運りて已まざるは、天地の気化也。人物の生生するは是に本づく。其の分って之を有つことの斎しからざるに由って、是を以て性を成すこと各殊なるに由って、是を以て之を本づくるに生を以てすれば、知覚・運動に見る也、亦た殊なる。気の自然の潜かに運る、飛潜動植皆な同じ。則ち同じからず。資りて以て養う所の者の気は、外由り入ると雖も、大致ね本より受くる気を以て之を召く。五行に生克有り、其の之に克つ者に遇えば則ち傷つき、甚しければ則ち死す。此れ性の各殊なれるを知るべし。(「孟子字義疏証」巻中「性」、p184)

戴震における〈性〉は、「生命」に賦与されたそれを維持するためには欠くことのできない身体器官の諸々の作用を指している。それは次のような記述からもうかがえよう。

曰わく。否。心は能く耳目鼻口を使うも、耳目鼻口の能に代ること能わず。彼の其の能なる者は、各自に具わる也。故に相い為くること能わず。人物は形を天地より受く。故に恒に之と相い通じ、天地の間を盈たして、声有る也、色有る也、臭有る也、味有る也。声色臭味を挙ぐれば、則ち天地の間を盈たす者、遺す或る無し矣。外内相い通じ、其の竅を開く也、是れ耳目鼻口為り。(同、p75)

邵子は又た云う、「神は心に統べられ、気は腎に統べられ、形は首に統べらる。形気交わりて神其の中を主る。三才の道也」と。此れ神の心に宅るを顕指す。故に「心なる者は性の郛郭」と曰う。邵子は又た云う、「気は則ち性を養い、性は則ち気に乗ず。故に気存すれば則ち性存し、性動けば則ち気動く也」と。此れ神は気に乗じ、気に資りて以て養わるることを顕指す。(同、p131)

では、戴震が『易経』において見出したとする〈天道〉というのは何なのだろうか。一言でいえば、〈気〉が流行し間断のない運動としての「道」の姿である。

道は猶お行のごときなり。気化流行して、生生して息まず。是の故に之を道と謂う。易に曰わく、「一陰一陽を之を道と謂う」と。洪範に五行は「一に曰わく水、二に曰わく火、三に曰わく木、四に曰わく金、五に曰わく土」と。行も亦た道の通称なり。陰陽を挙ぐれば五行を〓ぬ。陰陽各五行を具うれば也。五行を挙ぐれば即ち陰陽を〓ぬ。五行各陰陽あれば也。(「孟子字義疏証」巻中「天道」、p147)

戴震における〈天道〉とは、賦与された必然としての〈性〉は異なるにしても、〈天〉に合した善と自然とが調和し、純粋中正なる正しさを有した状態こそが、本来的であるとし、それを必然とするロジックが見て取れるだろう。

易は天道を言うも、而れども下は人物に及び、徒に「之を成せる者は性なり」と曰うのみならずして、先ず「之を継ぐ者は善なり」と曰えり。継とは、人物の天地に於ける、其の善は固より継承して隔たざる者なるを謂う也。善なる者は、其の純粋中正を称するの名、性なる者は、其の実体・実事を指すの名なり。一事の善は、則ち一事の天に合するなり。性を成すこと殊なると雖も、而して其の善たる也、則ち一なり。善は其の自然也。必然に帰すれば、適に其の自然を完うす。此を之の自然の極致という。天地人物の道、是に於て乎、尽く。天道に在りて分つこと言わず。自然に在りて分ち之を言うこと始めて明らかなり。(「孟子字義疏証」巻下「道」、p267-p268)

戴震は「孟子字義疏証」で、〈生命〉を支える活動として、身体器官の絶え間ない運動を説いた。〈声〉の問題として、戴震の思想を再び捉え直すならば、戴震の師である江永(1681-1762)は「音学弁微」の中で、人間の〈声〉が出生してから、言葉を習得に至る過程を克明に記している。

人の声が出るは、肺と肺〓を通じ喉に於いて始めて生れる。而して啼くと雖も末だに学成らざる者にして、而して其音の近き影の二母を喩えるが此れ人の声の元なり。是時に言うこと能わずに言うは心竅より出るに在り。舌心の臓気は末だ舌に充たず、廉の竅は末だ通ぜず。則ち舌棹すること能わずして西南と火金は未だ交わらざるなり。やや長きに及び、漸く知識心神有りて、漸く火金は開き、漸く是に於いて舌交わるは而して漸くなり。なお言うに能い、呼ぶに能うは唇音より〓くこと明らかなる矣。(江永「音学弁微」巻十一、「弁嬰童之音」。)

江永における音声観は、恒常的で循環的だとする見解が先学諸氏により提起され、それは易学の流れのひとつである象数学(象徴と数の法則性から「易経」を見出す立場)が根ざしていた問題と重なるとする。【平田1979】また、当面の課題にないにしても、後述する皆川淇園の言語論も象数学に根ざしていたとする見解も出されているため、その位相を考察するうえでは興味深い論点であろう。【浜田2000・2002・野口1994】 

戴震における〈声〉の問題は、しばしば江永との断絶が説かれることが多い。【平田1979・木下1979】。しかし、戴震は身体器官の構造から〈声〉が時代を超えた普遍的な現象として捉えていたことは言える。その意味で戴震における言語論は汎時論的な志向性を持っていたとは言えるだろう。【木下1979】

「転語二十章序」の中で戴震は次のように言う。

人の語言は万変し、而して声気の微により、自然の節限有り。この故に六書声に依り事を託し、仮借し相い称う。その用は博く至り、これを操り約に至るなり。……それ声の微により、これ而して顕れ、言う者は未だ終らず、聞く者は巳に解し、口に於いて弁じて繁からずにして、則ち耳は治に惑わず。人の口喉より始まり、下底の唇は未なり。按ずるに位を以てこれを譜し、その音声の大限は五にして、小限は各の四なり。是に於いて互いに相い参伍して、而して声の用は蓋し備わる。(「転語二十章序」、同、p2523)

自然の節限とは、〈声〉を発するさいに使用される身体の部位のことである。言語がその住んでいる土地によって、流転していくのは、「現象」として極めて当然のことであると戴震は語る。韻書が身体の部位によって、分類されている言葉もそれと対比できよう。

末だ韻書有り、先に反切あらざるは、反切は経伝より散見し、古籍において韻を論ずるは、以て博くその書が成ることを攷える。反切は前に在り、韻譜は後に在り。就く韻譜部分を、その唇、歯、喉、舌、任挙の一字を弁ずるは、以て標目とするが為なり。名は字母を以てし、韻譜は前に在り、字母は後に在る。(「声韻考」巻一、「反切之始」、『戴震全集』巻五、p2255)
 
そして言語の流転という現象は、戴震によれば、地域に差異があるのは当然であるため、古代に〈正音〉を求めるのは間違いであり、むしろ言語的現象がもつ、普遍性にこそ目を向けるべきだと主張するのである。

五方の語が殊なるは、声気に随いて転変し、于いて六経を見るは、遽にして終に其物を数えること能わず。これ六書は声を諧し、仮借し、詩は韻を取り、各にその声類の中の一二の字に由る。類は它に由り、流変し而して入る者を用いる。此れ韻と字の両を挙げずとも尽くせば通ずるなり。その流変と入所により、各の其方の音の如くは、古人に在らずとも眥な正音に在らずして、その誤りを疑わず。蓋し列国の音は、即ち各に正音は為り、彊をしてこれ斎しからざるなり。(「声韻考」巻三、「古音」、同、p2281)

このような戴震の言語観に根ざしていたのは「経書」を解釈する際に、言語を学習する過程が示される。そしてまた〈道〉に至る筋道であったがゆえにほかならない。有名な一節の引用だが、戴震の言語論を考えるときには、常に参照される言葉ではなかろうか。

僕、少時より家貧しく、親師を獲らず。聖人の中に孔子有り、六経を定め後人にこれを示すことを聞き、その一経を求め、而してこれを読みて啓かれ、茫茫然として覚ること無し。尋思して久しく、心より計りて曰わく、経の至る者は道なり、道を明らかにする所以の者は詞なり、詞が成る所以の者は字なり。字に由りて以てその詞に通じ、詞に由りて以てその道に通じること、必ず漸くすること有らん。(「与是仲明論学書」、『戴震全集』巻五、p2587)

では、江戸時代の儒者である皆川淇園は〈声〉と〈気〉の問題を捉え、そして言語論を思索したのであろうか。駆け足は承知の上で確認しておきたい。

4.皆川淇園―〈開物〉という方法

皆川淇園の学問は、「開物学」と称される。〈開物〉とは、『易経』繋辞伝における記述にある「物を開きて務めを成す(開物成務)」という言葉からとっている。それは次の記述からもうかがえよう。

蓋し余少きより、易を学び、年三十近きに及びて、易は開物の道に有ることを悟る。而して其の道の文字聲音に由り要とす。乃ち入る得べし。(「磨光韻鏡余論序」、『淇園詩文集』、p143)

皆川淇園の学問は、易学と声音が緊密な関係にあるが、まずは、易学を比較的平易に著した、「易学階梯」のテクストから、その記述をとりあげて考察してみたい。

周巳後、開物の道湮晦して、漢より以後は絶へて知る人なし。是の故に、八卦は唯卜筮の用の供するより外はなしとのみ思へることになれり。是は以ての外なる伏犠得之以襲気母といへるを視れば、八卦の本体は即ち天地間の気母なることを知れる人の言出せる説と見えたれば、後世の人の八卦を卜筮の用ばかりなりと心得たる浅はかなる見とは格別なることと思はるゝなり。されば伏犠氏の八卦を画せられたるは、天下に王たる入用にて製作し玉へるものなり。(『易学階悌』、『日本哲学全書』第九巻所収。p394)

淇園にとって、「易経」は単なる占いの書物ではない。「情理文章」が天地を統べるものであることを示したものであり、その情があまねく通じる「神明之徳」を感ずるものとして先王が撰定したものである。

此の理を推して、人の胸中の情理文章も亦、右の天の文と地の理とにあやかりて成れるものなるを知りて、さて始に右にいへる九籌の差等の別あるを以て、而して人の心の内に動ける神明の徳も、それに因りて相互に其の趣を通じ知ることになれりと云ふことを知りて、八卦をば其の用ゆる所とせんために作れりと云ふことを、以通神明之徳以類万物之情といへるなり。(同、p395)

次いで淇園は、「開物」の字義の解釈に移行する。

開の字の義は、門内にかくれたる物の、戸を明くるに随ひあらはに見へ来ることをも、見へ来さすことをも言ふことにて、此に開物といへるは物を見へ来さすことにすることなり。……此の物は文字を其の宅とし、名聲を其の号として、人の言語にたよりて人の意識の間に往来出没する者なり。此の物は天下の神明の片われにて、至極大切なる者なり。(同、p396-p397)

淇園は「開物」を「物を見え来さすこと」という解釈を施す。淇園の独特なのは「物」の解釈である。「物」とは人の意識の中を漂い、言語を媒介にしながら、往来しては出現するものであり、それを淇園は「神明の片われ」だとする。そのような解釈を提示されても困るむきもあるかもしれない。淇園の「開物学」の方法において、作用する精神の動きのことをあえて〈神〉と言っていることが着目すべき論点であろう。そして〈気〉と相応じるような、微細な心理的な揺れのことを指している。

凡ソ心中ニ動ク神気ハ、則チ天地間ノ神気ノ通ヒテ、人ノ心主ノ観感スルトコロ、万象変動ノ運為ヲ現シ、又因テ其心主ノ思擬ノ象ヲ作スコトヲ為ル物ナル故ニ、其人々ノ心中ニ動クトコロノ、彼我屈伸出入往来、千態万状挙数ベカラザルモノナリ。(『助字詳解』、勉誠社文庫43、1978年、p15)

さらにこの〈神気〉という心理的な微細な揺れのプロセスによって、〈声〉は発せられるのである。

是故ニ。心ハ神気ニヨリテ。其動ヲ作スコトヲ得。神気ハ声気ハ声音ノ万別ニ乗リテ。其情ノ微至ヲ尽スコトヲ得ルコトナルニ。心ト声音トノ相於ケルハ。其中間ニ神気ヲ介シテ。直通ヲ得ベカラザルモノナリ。(同)

このような〈声〉のプロセスは次のような記述からも示される。

凡ソ声ハ気ノ舌歯等ニ触アタリ鳴ルヨリ出ズ音ハ其餘声下顎ニ落チテ鳴ルヨリ生ズ(『均〓三十六則』、一丁オ)


「易学階梯」において、淇園が「其の言語の言ふ處は、並に皆其の物の名の始めて作れるは、其の物の実の己が神気に触れ覚ゆるさまを感じ識れるさまを、其の音聲を以て形容し出して其の名とせるもの」と語るのは、このような微細な心の動きを音声に託して発するという、皆川淇園における独自の言語観が現れているように思われる。

「淇園詩話」は、そのような〈神気〉という用語にも通じる微細な心理的な揺れ動きを重視する詩論である。このテクストでは、〈精神〉という概念に重きを置いて構成されている。最初の語り出しは次のように記述されている。

夫れ詩に体裁あり、格調あり、精神あり、而して精神は三物の総要たり、蓋、精神缺けずして、而して後に格調高きを得べし、体裁佳を得べし、盛唐の詩は、興趣を主とす、興趣も亦精神に由て出づ。此の在る所を認めんと要せば、須く之れを冥想中に求め、而して後に之れを得べし。(『淇園詩話』、『日本詩話叢書』五巻、p181)

淇園の詩論の中で問われるのは、〈冥想〉によって、心の中を思い浮かべ、詩によって感ずることが要求されることであり、思念することで想像を働かせ、文字を思い浮かべて、詩を諷詠することである。

冥想とは何そや、古人の詩を聞きて、其意を黙会するか若き、述作の境に触れて而してその旨を潜理するが若き、此黙会潜理の間、総て之れを名けて冥想と曰ふ、如何してか精神を此中に求めん。蓋冥想悦惚の間、天地位し、万物備はる。感に随て現し、念に随て変ず、此、感念を主る者、所謂はゆる精神なり。(同)

冥想中の精神の如きは、乃然らず、其感現の時に方りて、其人必須く志を継ぎ意を集めて、念々相続き、以て之れを観玩して、而して後に始めて長存することを得べし。此れ其の異なり、作家の詩、宇々此境を離れず、句々此界に違はず、念々相続で以て之れを執持し、以て之れを鼓盪して、歌詩と為る、悦として象あり、惚として理あり、是に於て之れを聴くべく、之れを諷じて発すべし。(同、p182)

皆川淇園は「精神は譬へば偃師が木偶なり。文字は譬へば偃師が木偶の機糸機輪なり」という。心の微細な揺れ動きによって、思念することで、心に起こった様々な心象を文字に起こす。それが淇園における詩論である。

凡、詩を作る未だ一語成さゝるの先、必立つるを象を以てす、象立ては則精神寓す、而して其物たるや、窈然、冥然、条然、忽然、是に於て心之れが為に哀感を生じ、情之れか物象を明にし、和声以て其聴く所を平にす、詩蓋是に於てか始めて成る。(同、p186)

淇園の詩論は、〈精神〉による思念を鍛錬することで作りあげられるべきものだとし、その意味では〈声〉の問題が後景に退いたと見えるかもしれない。しかし、淇園の「開物学」の方法は、文字と声の緊密な関係性から、心の動きを問い、そこに言語の「根源性」が存立するという視点をとっている。「淇園文訣」から見てみよう。

先ツ文章ニハ、文字ノ鎖ノ貌付ト云モノアルコトナリ、此貌付ト云モノハ、我文章ヲ書キ出ス時ニ、我神気ガ、我心ノ辞作リヲスル時ノ思索ヲ付クル際ニアタリテ、何トナク、其辞作リノ物好ノ条理ヲバ、様々ニ出シ、心ニアテガヒテ、工夫ヲ付サセ、筆ヲ動カサスル便トナルモノナリ、是心神ノ妙用ナリ、多ク古書ヲ読ミテ、様々ノ文字ノ鎖ヲ、心目ニ熟記シテ居レバ、文ヲ書ク時ノ、ソノ機発ニアタリテ、其覚ヘコミタル古文ノ文字鎖ノ貌付ガ、其時ノ相応クニ、心ニ浮ミ出来リテ、筆尖ヲ導クナリ(『淇園文訣』二丁オ)

このように、心の動きから文が現れ、その「心神ノ妙用」により、〈文字〉は生じることを語る。皆川淇園の入門書である「問学挙要」では、次のように語られる。

凡そ文必ず動を承くるに静を以てし、静に接するに動を以てす。若しくは上下倶に働き、若しくは倶に静なる者、その上を既住の事と為さざれば、則ちその下は必ず未来の事にして、その一は乃ち正当の事と為す。既住を己に定めて静なりと為さば、未来を、未だ定めずして動くと為す。(「問学挙要」、『近世後期儒家集』日本思想大系37巻所収、p118-p119)

皆川淇園における「開物学」の方法は、確かに〈文字〉と〈音声〉の関係を不可分なものとして考える志向性が確認できるだろう。それは、次のような記述からも明らかだろう。

文字ハ義ヲ載スルノ器ナリ文字ノ声音ハ其義ノ以テ人心ニ符スル所ノ根帯ナリ其根帯タルトコロノ故ハ初ニモ段々ニ云タルコトク天地自然ノ数ニテ人コレヲ其声音ニ発スルモノナリ……其感スルコトハ其中天地一定ノ至理其中ニ存スレハナリ……感スル所ノ気ノ形ハ同一ナルニヨリテ其声音ニ少シツヽハ清濁相違スレドモ大キナルコトハナキモノナリ故ニ此カ声ヲ以テ往テモ誰カ義ニ違ワス誰カ義ヲ以テ推シテモヤハリ皆意ニ到ラルヽナリ此四方声音帰一途ノ弁ナリ(「均〓三十六則」、八丁ウ-九丁オ)

5.結語
 
以上のように戴震と皆川淇園の思想を考察することで、〈声〉と〈気〉の関係から、近世東アジアにおける儒家言語論を照射することを試みた。研究史をめぐる精査やいうまでもない。本報告においては、恩恵を受けた研究は数多あるが、極力、テクストに即いながら構成したことはあらかじめ断っておきたい。本報告を通して、自らがどのような形で、近世東アジアの思想史的文脈を示すのか。その是非についてはパネル参加者や拝聴している方々に委ねるしかないが、微力ではあるせよ、何らかの形で、言語・音楽・身体をめぐる諸々の問題について考えていただくような契機となっていれば、幸いである。

【参考文献】
〈テクスト〉
皆川淇園「均〓三十六則」(1761成立)、国立国会図書館蔵。
―――「淇園詩話」(1771刊)、池田四郎次郎編『日本詩話叢書』五巻所収、文会堂書店、1920年
―――「問学挙要」(1774刊)、中村幸彦編『近世後期儒家集』日本思想大系37巻所収、1972年。
―――「淇園文訣」(1787刊)、国立国会図書館蔵。
―――「磨光韻鏡余論序」(1801)、『淇園詩文集』所収、ぺりかん社、1989年。
―――「助字詳解」(1813刊)、勉誠社文庫、1978年。
―――「易学階梯」(成立年不詳)、三枝博音編『日本哲学全書』第九巻所収、1936年。
戴震「孟子字義疎証」(1776)、安田二郎・近藤光男編『戴震集』、朝日新聞社、1976年。
―――「与是仲明論学書」(1753) 、『戴震全集』巻五、清華大学出版社、1997年。
―――「声韻考」(1766)、『戴震全集』巻五、清華大学出版社、1997年。
―――「転語二十章序」(成立年不詳)、 『戴震全集』巻五、清華大学出版社、1997年。
―――「六書論序」(成立年不詳) 『戴震全集』巻五、清華大学出版社、1997年。
江永「音学弁微」(1809刊)、芸文印書館、1964年。
〈戴震関係〉
Elman,Benjamin A. From Philosophy to Philology:Intellectual and Social Aspects of Change in Late Imperial China,Havard University Press,1984.
石井剛「戴震の学術思想における「聖人」の作用について」、『中国哲学研究』20号,2004年。
―――「戴震から章炳麟へ―その言語研究に関するノート」、『中国哲学研究』22号、2007年。
―――「理を以て人を殺さないために―清末民初期における「戴震の哲学」論再考」、奥崎祐司編『明清とはいかなる時代であったか』、汲古書院、2007年、所収。
伊東貴之『思想としての中国近世』、東京大学出版会、2005年。
―――「中国近世思想史における同一性と差異性―「主体」・「自由」・「欲望」とその統御」、溝口雄三編『中国という視座』、平凡社、1995年。
―――「明清思想をどう捉えるか―研究史の素描による考察」、奥崎祐司編『明清とはいかなる時代であったか』、汲古書院、2007年、所収。
井上進『顧炎武』、白帝社、1994年。
金井治『易の話―「易経」と中国人の思考』、講談社学術文庫、2003年。
木下鉄矢『「清朝考証学」とその時代』、創文社、1994年。
―――「戴震の音学―その対象と認識」、『東方学』58輯、1979年。
―――「戴震と羑派の学術」、『東洋史研究』45巻3号、1986年。
近藤光男『清朝考証学の研究』、研文出版、1987年。
島田虔次『中国における近代思惟の挫折1・2』、東洋文庫、2003年。
中島隆博『残響の中国哲学―言語と政治』、東京大学出版会、2007年。
西順蔵「「戴震の方法」試論」、『西順蔵著作集』第1巻、内山書店、1995年。
平田昌司「「審音」と象数―羑派音学史研究序説」、『均社論叢』9号、1979年。
三浦国雄朱子と気と身体』、平凡社、1997年。
溝口雄三『中国前近代思想の屈折と展開』、東京大学出版会、1980年。
山井湧『明清思想史の研究』、東京大学出版会、1980年。

皆川淇園関係〉
中村春作・櫻井進『皆川淇園・大田錦城』明徳出版社、1986年。
櫻井進「「解釈」の成立―皆川淇園の開物学について」、『日本思想史学』14号、1981年。
―――「皆川淇園の文学論」、『待兼山論叢』17号、1983年。
中村幸彦「近世後期儒学界の動向」、『近世後期儒家集』解説、1972年、所収。
野口武彦『江戸思想史の地形』、ぺりかん社、1993年。
浜田秀「皆川淇園論(一)・(二)」、『山辺道』44・46号、2000・2002年。
肱岡泰典「皆川淇園の開物学」、『中国研究集刊』寒号、1996年。

(文責:岩根卓史)

(2011年7月3日。2011年度表象文化論学会第6回大会「パネル2:逃れゆく〈声〉の表象──音楽と言葉の狭間、行為としての〈歌〉を問う」研究報告)