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 ジクムント・バウマン『リキッド・モダニティ』―「時間/空間」・「仕事」・「共同体」―

リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会

レジュメはリンクからダウンロードできます。

1.はじめに

本報告は後半部分の簡潔な要約を適宜しながらも、報告者の考察も加味していきたいと考えている。バウマンが本書において、現代を「流動的近代」と名付けたが、バウマンは、「流動的近代」は、ポスト・パノプティコン時代に入っていると明言している。

パノプティコンとはいうまでもなく、支配/被支配の生産される関係をフーコーが提示した「権力」モデルのことであるが、そこでは、一人の人間が「責任の被拘束性」を負うことになる。そして、パノプティコンという施設自体の「場所の被拘束性」も一人の人間が負う。そのようなモデルであった。バウマンの言葉を引用してみよう。
  

権力はいまや電子信号の速さで動き、権力を構成する事象を動かすのに必要な時間は一瞬へと短縮された。権力は空間の制約を受けない、空間にしばられない、真に超越的なものとなった。・・・・・・これによって、権力保有者には、前例のないチャンスがおとずれた。権力のパノプティコン的執行にまつわる悩みが解決されたのである。近代史の現段階の形容の仕方にはいろいろあるだろうが、現在は、たぶん、なによりもまず、ポスト・パノプティコン時代だといえる。パノプティコンで重要なのは、責任者が「その場所」に、近くの監視塔のなかにいなければならないことだった。ポスト・パノプティコンでは、人間の運命を左右するような権力レバーを握る者たちは、いつでも、だれの手もとどかないところまで、逃げていくことができるのである。パノプティコンの終焉は、管理者と被管理者、資本と労働、指導者と支持者、戦争の敵味方のあいだの、相互関与の時代の終焉を予感させる。いまの主要な権力手段は、逃避、流出、省略、回避である。(p15-p16)

バウマンは、権力における相互関係性の終焉をみている。現在のポスト・パノプティコンは、「絆」にささえられた社会ネットワークの解体を促すことで、もろく、はかなく、不安定な流動性を、原動力としている。この問題は、「時間/空間」・「仕事」・「共同体」にも関わってくるので、各章を要約したうえで精査したい。


2.要約

【時間/空間】

「流動的近代」における「空間」は、極めて空虚なものである。都市では見知らぬ人同士が出会うが、それは一回限りの偶然であり、共有する過去や思い出もない。出会いは短く、表面的なものである。そして意味が欠如し、意味をもつことさえ期待されることはない。「流動的近代」における「空間」とは、生活者を消費者にかえ、私的な感動を味わい、同じ目的と似たような行動をする群集に私的娯楽を提供する「消費の殿堂」のような空間である。そこでは好きなだけ消費に集中でき、相互関与もなく、誰にも邪魔されずに楽しむことができる。この自己完結化した「消費の殿堂」で陳列されたモノは、色彩が豊かで万華鏡のような多様性に富む一方で、除菌され、安全宣言されたものばかりが並ぶ。不安を感じることなく、自由と安全を提供してくれる場所である。

バウマンは、このような「消費の殿堂」を、レヴィ=ストロースの議論に倣って、「食人的方法」の応用として説明している。異質な肉体や、異質な精神を「食いつく」すことで、食べた人間の他者性を消去し、自分の肉体に取り込むのである。もうひとつ、レヴィ=ストロースが他者性の対処する方法が「嘔吐的方法」である。それは自らの「居場所」を確保し、分離された空間に帰属を求め、防衛された境界に囲い込み、他者を入れない方法である。都市のなかで、個人が「居場所」を求めて、論理もそっちのけで、「民族性」という偽者のユニークさによって「独特の価値」を求め、共有されたルーツと、共有された過去と歩むべく未来を作りあげるのである。

政治の領域が私的な告白にとってかわり、「政治はいかにあるべきか」という関心が薄れ、よき社会への展望を語る政治的言説は抜け落ちてしまった。政治家は「あなたにはなにができるか」を語らず、「あなたはだれなのか」を執拗に情緒的な言い回しで、宣伝するだけである。だから、「流動的近代」における政治の役割とは、共同体の維持のために、帰属しない者を一掃することを自己目的化し、継続することが任務なのである。

バウマンは、このような現在進行形で進んでいる時代の移行を、「重い近代から軽い近代へ」(p148)と述べている。重厚な機械設備をもった工場が富と権力の象徴であり、資本も労働も「呪縛」された時代ではなく、「瞬間性」をもち、すばやく移動できる人間、そしてそのスピードを自由に操られる人間が、富と権力を支配できるのである。堅固で重厚な設備はいらない。変化に富み、身軽で地域に縛られない、短期投資で利益をあげたら、さっさとその場所を去っていく、資本の不確実性こそが、パノプティコンを解放するかわりに、今日的支配の原型となっているのである。ゆえに「労働」も流動化せざるを得ないのである。
 


【仕事】

バウマンは、「進歩」という近代型ユートピアの理念を端的に示すものとして、ヘンリー・フォードの言葉を引用する。「歴史なんてたわ言ですよ。伝統などもいらないでしょう。みんな、現在のなかで生きたがっているんだし、価値のある歴史は、いまこの瞬間つくられている歴史だけでしょう」。(p170)

「進歩」にはふたつの信念が含まれている。「時間はわれわれの側にある」と「われわれはものごとを実現できる」。しかし、そのような自信の基盤は、いまや崩壊し、疑念にさらされている。答えのみつからない緊急の課題にたいして、目的遂行をするための主体が欠如しているからだ。近代国家への信頼性の低下が如実に示している。

だからといって、「進歩」への信仰は終わったのか。そうではない。完成に到達するまでの「終りなき挑戦」へのプロセスに意味がすり替わっただけである。もうひとつは、「進歩」の意味が極度に「個人化」されたことである。「生産」は個人が行い、みずから選択したリスクを個人レベルで負わなければならないのである。

「進歩」信仰を支えた価値基盤であった「仕事」の性格も完全に変わった。終身雇用から短期契約に形態が変わったからである。「柔軟性」というスローガンが労働市場にあてはめられたとたん、労働者は更新されるかどうかもわからない不安定な地位に転落した。そして、高速で移動する資本を繋ぎとめる手立てを、政府はもっていない。せいぜい「企業活動にふさわしい環境整備」をするために、規制緩和とスリムな民営化を進める政策しか持ち合わせていない。

グローバルな労働市場で「効率的で生産性のある合理化」がすすめられた結果、「先進」(「近代化」という観点を基準とした)諸国における失業問題は、「構造的」な問題となった。勤め口がひとつあらわれると、複数の職が消えるのである。しかし、永続的に信頼を託せる組織はもはやなく、組織自体は「組織再編」と「構造改革」を絶えずスローガンにかかげるが、そのような組織に信頼をおく人々はいない。バウマンは、信頼のないところに抵抗はないと結んでいる。保証された権利に「拘束力」があると信じて戦った、「先進」諸国における労働運動の危機的状況に言及しているが、いまの社会が前提となっているものに対する視点の欠落があると指摘している。

【共同体】
 
最後に共同体論に関する考察が加えられる。共同体論者によれば、共有する言語を使用し、共有する歴史を教育をうければ、「自己」を確定でき、構築できるという。しかし、共同体は自らの力では生き残れず、構成員が自主的に支えていかなければ成立しない。ゆえにあらゆる共同体は、「つくられたもの」である。現実のまえよりも、個人の選択のあとで成立するものである。共同体論者が抱える「属せればいいな」という内在的逆説は、自らが否定する「個人の選択の自由」を認めなくてはならないのだ。共同体論の矛盾は、「流動的近代」の逆説でもある。はかなく、移ろいやすい「個人化」された多様的な生活様式は、共同体論にとっては障害でしかない。共同体論があらわれるのは、共同体の外にあるものがどうでもよくなったときである。共同体的世界の内的調和は、外が敵対者にみえたときに完成する。ジョック・ヤングがいうように、存在論的不安を投影するために他者を悪魔化するのだが、しかし、共同体論者が語る「同胞愛」とは、先天的な仲間殺しがないと成立せず、また絶対に機能しないのだ。

バウマンは、共同体としての近代国家は、確実性と安全を保障する主要手段を売り渡し、「国際金融市場」に身を委ねたという。国家の政治的自由は制限され、「世界秩序」に従属するように要求され、秩序を乱す国家は厳しく処罰される。「流動的近代」における新たな共同体の形態は、「クローク型共同体」だと述べる。「特別な出来事」のために群集は集まるが、個々の関心を融合し、統一するようなことはない。そして期間が過ぎれば、群集は散っていく。このような風景は「五分間だけの快楽」を空しく求めるが、そのようなあり方こそが「流動的近代」におけるバラバラになった個人の孤独を永久化していると結んでいる。

3.考察

バウマンは巧みに「流動的近代」と表現しているが、概念を厳密に峻別しながら、グローバリゼーションが進行している時代を捉えようとしている。前期例会のテーマである「共同体」という議論に絞るならば、いまや近代国家は安定した保障を個人に求めない。「アイデンティティ」を構築し、確定するために、「民族性」が叫ばれるが、それは「居場所」を確保しようとして、存在論的不安を抱えた個人が求めるものである。バウマンは「流動的近代」が推し進めた「個人化」という独特な風景を、悲観的観測で述べている。本書の眼目は「固体的近代」と「流動的的近代」への移行期の徴候を記述し、深まっていく個人の孤独を考察したものと捉えることができよう。バウマンは、現在をポスト・パノプティコンと明言する。つまり、「権力」の概念もその関係自体も、前提となるものが変化している。処罰を執行するのは、監視塔にいるわけではない。運命を左右する権力保有者は、処罰する者との関係をもたないし、知る必要もないのである。それに伴って国家の役割も変わったといえよう。その重点が、保護・管理・訓練・統制にあった時代から、資本の要求により、規制緩和が優先されたからである。選択肢の自由と増大は、存在論的不安と不確実性という代償のかわりに、寄る辺のない個人を生み出したのである。

(2011年4月28日報告 文責:岩根卓史)