バトラー.J『生のあやうさ』(3)

最近のグローバルな暴力に照らして私にとりついて離れない問いがある。誰が人間として看做されているのか。誰の生が〈生〉と見なされているのか?そして究極的に何が生をして悲しまれるに値するものとなるのか?・・・・・・失うことで私たちは皆はかろうじて「私たち」となる。そしてもし私たちが誰でも喪失を体験しているとするなら、当然のことだが、私たちには欲し愛してていたものがあったのだし、自分たちの欲望をみたす条件を探そうと努めていたことになる。ここ数十年、私たちはエイズによって多くを失ってきたが、それ以外にも病気やグローバルな紛争などによってさまざまな苦しみや喪失を体験してきた。また次のような事実もある。すなわち、女性たちや性的マイノリティを含むさまざまなマイノリティたちが、集団として暴力の被害を受けてきたこと、たとえ暴力が実際に行使されない場合も、その可能性にさらされてきたこと、それは間違いない。このことが意味するのは、私たちのそれぞれが、自分の身体の社会的可傷性のために、ある面では政治的な存在でありうるということだ。それは欲望の場所、身体が傷つきうる場であり、自らを主張すると同時に自らをさらす自己開示の場でもある。喪失と可傷性は私たちが社会的に構成された身体であることの結果なのではないか。他者と触れあい、その愛着を失う危険を冒しながら、他者にさらされ、そうした露出のせいで暴力を受ける危険を冒していたのではないだろうか。(p48-p49)