バトラー.J『生のあやうさ』(2)

アメリカ合州国が起こした戦争の犠牲者の死を悼む記事はない。あり得るはずがないのだ。もし死亡記事があるとすれば、そこには生が存在していたことになる。心にとめておく価値のある生が、評価し記憶にとどめておくに足る生が、そこにはあったことになるだろう。そうしたすべての人びとの死亡記事を書くなんて無理な話だ、そもそもあらゆる人間の死を記憶をとどめるなんてできはしない、と言われるかもしれないが、そうした死亡広告は悲しみの可能性をおおやけに流通させる手段として機能しているのだ。そのような手段によって、ある特定の生が、おおやけに悲しみことのできる生として国民が自己を承認するための象徴となり、他の生がそうなることができない、という差別が生み出される。そのような仕方で、ある生だけが承認されるに足る生となるのだ。(p72)