〈詩〉と〈歌〉をめぐる〈共時性〉への考察―儒家言語論と国学言語論の「時空間」

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1.問題設定

これまでの国学における歌論をめぐる研究は、本居宣長の「もののあはれ」論を頂点にして考えられてきた。

→そのような議論から、抜け出すための模索。日本文学研究を参照にすれば、漢詩論と歌論との関係性を指摘している研究が蓄積されている。(中村幸彦・宇佐美喜三八・日野龍夫など)

宣長と徂徠学との関係性は、つとに指摘されてきたが、それだけではなく、「歌論」を考える場合、「漢詩論」と照合することでみえてくるものがあるのではなかろうか。

→その意味で〈共時性〉という概念を軸にしながら、〈詩〉と〈歌〉をめぐる「時空間」を考察する一つの試みとして本報告は位置付けられる。

→それだけではなく、「漢詩」をめぐる問題に、「漢字」という問題があげられる。「漢字」とは、〈字〉と〈義〉と〈韻〉をめぐる複雑な関係性をもった《コトバ》。その中でも「漢詩」という文芸は、押韻を重視するため、〈韻〉をめぐる研究がなされてきた。今回は近世日本における『韻鏡』研究の大成者である文雄の議論を加味しつつ、「漢詩」と「和歌」をめぐる関係について考察してみたい。

2.太宰春台の〈詩〉と〈歌〉をめぐる射程

蓋し徂徠没して後、物門の学、分れて二と為る。経義は春台を推し、詩文は南郭を推す。(江村北海『日本詩史』、岩波文庫、p111〜p112)

→江村北海(1713〜1788)の『日本詩史』(1771)による批評。徂徠没後、「経学派」と「詩文派」に分かれるという見解。しかしながら、太宰春台(1680〜1747)は「経学」だけではなく、「和歌」や「漢詩」による言及を多くしていることは、あまり知られていないのではないか。『詩論文論』や『独話』など。その中でも、『独話』(1757刊)は、太宰春台における「詩歌」観が見て取れるという意味では興味深い史料。

世に和歌好む人多けれども、和歌の道を知れる人こそなけれ。三十一字を連ぬる人は多けれども、万葉集古今集に入るべき程の歌をよみ出だす人を、未きかず。……十四五歳の時、始めて詩と云ふ物を学びて、稍七言絶句などを綴るすべをしれり。其時、愚心ひそかに思惟せしは、和歌を学びて、縦ひ上手になりたりとも、公家の人々を超ゆることなるまじければ、いつも公家の下にかゞみなんも口をし。詩は、公家の教をうくまじければ、上手にさへなりなば、公家をも弟子にすべし。此道におきては、天下におそるゝ所あるまじ、いざ歌よむことをやめて、詩作ることを習はゞやと思ひ定めて、書き付けおきたる和歌の反故を悉く焚きすてゝ、一首ものこしとゞめず。夫より詩を好みて、ひたすらに学習し二十年を経て、漸く詩の道を明めたり。(太宰春台『独話』、『日本随筆大成』第一期一七巻、p261)

→「和歌」の道を諦め、「漢詩」へ移行するという太宰春台の軌跡。それは和歌によって、致仕を得た服部南郭とは対照的なもの。さらに、太宰春台は、「詩」の眼から、「和歌」を相対化してみる。

詩をみる眼にて、歌をみれば、歌の位も姿も明に見えわくなり。万葉集の歌は、風雅より漢魏の古詩迄を兼ねて、稍、盛唐の詩をはらめるものなり。古今集の歌は、正しく盛唐の詩なり。……和漢の時代を考ふるに、我が国元正、聖武、孝謙の御宇、正しく唐の玄宗の開元、天宝の時にあたるに、其比阿部の仲麿、吉備公の如き人、入唐して盛唐の礼楽文章を学びてかへり、我が国に弘めし故に、我が国の歌も、自然に唐詩の風体に似たり。仲麿が明州にて読みたりと云ふ、あをうなばらの歌は、盛唐の詩の佳境にて、李太白が峨眉山月の詩と同格なるべし。(同、p262)

→「詩は盛唐」というのは、古文辞学の常套的な解釈だとはいえ、ここで着目するべきは、『万葉集』の歌集としての価値が高いことであろう。後述する賀茂真淵は、「風雅」としての〈古〉を持った歌集として、『万葉集』を尊んだのである。その意味で、「雅」という認識は、決して宣長だけではなく、近世国学の歌論全体に対し再考を促す余地があるように思われる。服部南郭(1683〜1759)も賀茂真淵もそれを共有していた。服部南郭の「漢詩論」と賀茂真淵の歌論を確認していく。


3.服部南郭における「雅」の意識

主に『南郭先生燈下書』(1733)より。

文章ハスベテ、中華ノ語ニ候ヘドモ、其内俗語雅語トワカレタル品心得ベキナリ、六経ヲ始トシテ、雅語ハ皆潤色シテ世俗通用ノ語ニハアラズ(服部南郭『南郭先生燈下書』、『日本詩話叢書』第一巻、p49)

→南郭によれば、「俗語」と「雅語」の峻別は重要だと語る。その上で「詩」は「諷詠」すべきだと述べる。

殊更詩ハ、諷詠スル物ニテ、元来理ヲ云盡スヘキタメノ具ニモアラズ、スヘテ理ノ上ヘアラハレ出タルハイヤシキ物ニテ、ヨク云トリ候マデニテハ、タトヘ面白キ事ニテモ、手ヲハタト打タル計ニテ、何ノ感ハ残ラズ候、スベテ詩文ハ君子ノ詞ニテ候ヘバ、必シモ匹夫匹婦ニヨク通スルタメノ物ニテハ無之候故、只何トナク風景情事ノ間ニモタセ置候ヘバ、無限意味モ含ミ、誠ニ君子ノ詞ニテ、オナジ君子ハ聞トリ候事ニ候、然レドモコノ風人ノ情、始ニハオボロニテ、シカト我物ニ成カネ候故、先古人ノ姿ニ似習事ヨロシク候、此品々ノ事ハ、愚案ニ存付候ハカリニテモナク、大抵古人詩話ノヨロシキ書ニハ、此心ニテ論シ置候、此味不知候内ハ、古人ノ詩話モ不通候。(同、p60〜p61)

→このような春台や南郭の「詩論」から垣間見えるのは、「古」と「雅」の意識であろう。それを和文の論理に組み込んだのが、賀茂真淵(1697〜1769)ではあるが、このような視点に立つのであれば、賀茂真淵の歌論も今までの視野では見えなかったものが出てくるのではないか。

4.賀茂真淵の「雅」としての万葉

此うた古事記日本紀らに二百ばかり、万葉集に四千餘の數なむ有を、言はみやびにたる古こと、心はなほき一つごゝろのみになんありける。(賀茂真淵万葉集大考』、『賀茂真淵全集』第一巻、p1)

→「言はみやびにたる古こと」という点に着目すれば、真淵における「万葉」重視の姿勢は、やはり、「雅」に貫かれたものであると言える。その意味で言えば、「詩論」と「歌論」は、パラレルな関係にあり、〈共時性〉を帯びたものとして考察しなければならないのではなかろうか。

うれしきをうれしい、かなしきをかなしい、うれしくをうれしう、かなしくをかなしう、くらくしてをしらうして、からくしてをからうして、などの類の、きをいといひ、くをうといふは、皆平言也、雅言には必、かなしき・うれしくてふ如くいへり、後世といへ共、哥には皆平言はいはざるを、文には誤る人有、そは物語ぶみによりて誤るめり、物語ぶみはむかしむかしのあとなしばなしなれば、平言を専らと書が中に、雅言をも交へし也、仍て雅文を書人此心せで、さる物語の言をみだりにとるはひがごとぞ、又古事記日本紀、其外の古書を訓にはみな雅言を用うへきに、今の訓に平言も交れり。(賀茂真淵『語意考(清書本)』、『賀茂真淵全集』第一九巻、p165)

→また頭注には次のような真淵の「雅言」認識がみられる。

雅言トハ、古言ハ本ヨリニテ、今モ傳ヘテイヘル正シキ言ヲ云、平言トハ、常ニイフ言ニテ、シカシナガラ誤トハナクテ、雅タラヌヲ云、俗言トハ訛リ轉シ、又他國ノ言ナト相交ヘイフナドヲ云。(同、頭註、p165)

賀茂真淵は、以下の言説からもうかがえるように、「かく大らかにいひゝろめてみやひたること」という視点から〈古〉の世界を構成していく。しかしながら、ここまで見てきたように、賀茂真淵の万葉論は、「ますらをぶり」がテーゼとして膾炙してしまったがために、「誤読」をされてきたように思われる。しかしながら、国学における歌論を考えていく際、「漢詩論」と「歌論」との〈共時性〉を考えていく必要があろう。

いにしへ人はまことにのみして、文のあやなることは後の世にこそ、といへる人ありけるは、いにしへをしらぬなるへし、そのひとつふたつをいはん、下ついはねにみやはしらふとしり、高天の原にちきたかしりて、はつ國しらすすめらみことゝたゝへまうせしは、そのみやばしらたつる地をかたくし、やねをたかく作らししててふ事なるを、かく大らかにいひゝろめてみやひたることを、中つ世よりこなたにいひ出る人あらめや、且ひろむるのみならず、ことは多かるべき事をつゞめてもいひたるは上つ代なり、(同、p83)


其外かきりしらす有をよみつらねておもへ、又古事記に、大名持の神をしつめまつれりし文らの類ひは、ことにいとも上つ代のものにして、神さひたるあやあること、中比の世人のまねひ書へきにあらす、かゝる類ひをさはに擧つ、見ん人はじめておもひ得さらんや、おほよそ天つちの中に、鳥も獣も草も木も、むかし・いまとかはるはあらぬを、人てふものゝならはしのみことになりにて、そのならはしのわろきをもわきまへぬは人也、わたくしの心をわすれてふるきものを見よ、(同、p84)

→次節では、「漢詩」は「韻文」に根ざしているため、どうしても避けて通れない問題として、「漢字」における〈韻〉の解釈という問題が浮上してくる。その糸口として、近世日本における『韻鏡』研究の大成者である文雄(1700〜1763)の議論を考察してみたい。


5.文雄による『韻鏡』研究

◎文雄(1700〜1763)の略記

文雄は、1700(元禄13)年に丹波国に生まれ、14歳に玉泉寺にて剃髪した後、京都了蓮寺の誓誉上人に従う。浄土宗の僧。若くして江戸に遊学し、宗学のかたわらで太宰春台に華音を学ぶ。江戸で数年間研鑽したのち西帰し、師席を継いで了蓮寺第一七世の住職となる。1744(延享元年)には『磨光韻鏡』を刊行した。『韻鏡』研究については、『磨光韻鏡』の他に、『和字大観抄』・『三音正譌』・『韻鏡指要録』などがある。また、富永仲基の『出定後語』論争にも加わり、須弥山説の立場から、『非出定後語』を書いている。

◎『韻鏡』とは?

唐末五代頃に成立した四十三枚からなる音図集。作者は不明。近世期に入ると、『韻鏡』注釈が隆盛を極める。『韻鏡』は中世日本に輸入され、詩作における参考に使用された漢字音の実用書。中国では世俗の実用書として忘却されるが、中世日本においては、真言宗の教学の内部でのみ、行われてきたものが、室町時代に公家が年号や人名の吉凶の占いに用いられた時から、世俗化していく。この人名反切から切り離して、『韻鏡』を研究した人物こそ文雄。

◎文雄の『韻鏡』研究について

韻鏡ハ先ヅ須ク華音ヲ学ブニハ音ヲ学ブベシ。而シテ之ヲ習ヘバ然ルニ四聲ハ明ラカニテ可也。七音ヲ辧フベキ也。内外開合凡百呼法ハ悉ク分別スベキ也。(文雄『磨光韻鏡』太宰春台序、勉誠社文庫、p7)

→太宰春台の『磨光韻鏡』の序文に寄せられているように、「韻鏡」とは、華音を学ぶ際の必須の文献であることが述べられている。春台は『韻鏡』を華音の基礎として看做していることは間違いない。そして文雄も華音学習においては必須の書であることが次の文章からうかがえる。

凡ソ字音ト呼ブモノ華夷ノ諸邦ト同ジカラス。古今ノ傳習スルハノ音ハ漢呉ノ二音ナリ。漢音ハ儒家ノ用ヒル所トシ、呉音ハ佛家ノ用ヒル所トス。竊ニ按スルニ、二音昔日華人ノ傳フル所ニテ應シト雖モ、而シテ四聲ハ正シク五音ニ分チツル。今ニ於テハ展轉訛ヲ成シ、四聲〓乱シ、七音乗舛ス。清濁交誤リ。軽重分タラズ。之ヲ韻鏡ニ鑑ミレハ、則チ正律ニ協ス訛轉自ラ見ユ。渾然タル國音ナリ。故ニ二音共ニ和音ト称ス。近世中華ノ正音傳習ス。当ニ華音ト称スベキハ俗ニ唐音ト称ス其音ナリ。……之ヲ韻鏡ニ正スニ即チ符節ヲ合スルガ如シ。故ニ音韻ヲ学ブ者、必ズ華音ニ由ラベカラズ。華音ヲ学ブ者必ズ韻鏡ニ由ラベカラズ。(同、p126)

→『韻鏡指要録』での文雄の発言。

韻鏡ト題名セルハ、音韻明鏡ノ意ナリ。韻ノ字ハ音ニ从フ。員ノ聲ニテ六書ノ中ニ諧聲ノ字ナリ。音ノ類ナレハ、韻モ即チ音ノ義アリ。故ニ韻ノ一字ニ音韻ノ義ヲ具足セルナリ(文雄『韻鏡指要録』、勉誠社文庫、p25)

→かかる文雄による『韻鏡』研究は、「韻モ即チ音ノ義アリ。故ニ韻ノ一字ニ音韻ノ義ヲ具足セルナリ」という言辞から見てとれるのは、「漢字」における〈字義〉と〈音義〉は一体のものとして考える視座であろう。このようにみれば、文雄による『韻鏡』研究は、近世国学者の「漢字音」研究において参照され、幕末国学の言語論における伏流線としても考えられるであろう。

その具体的な例として、鶴峯戊申(1788〜1859)・足代弘訓(1785〜1856)・富樫広蔭(1793〜1873)を挙げてもよいだろう。鶴峯戊申は、『磨光韻鏡指南口伝書』・『韻鏡口授』・『磨光韻鏡口授秘伝書』・『磨光韻鏡聞書』などを著述している。さらに足代弘訓も『足代翁韻鏡口授』・『古言清濁論韻鏡照対』・『古言梯韻鏡照対』などを著述し、富樫広蔭も『韻鏡捷見』を著している。このように見れば、文雄の『韻鏡』研究が、幕末国学の言語論にインパクトを与えたことは間違いない。

6.むすびにかえて
 
以上、やや駆け足にはなったものの、「漢詩論」と「歌論」における〈共時性〉を考える契機として、文雄の『韻鏡』研究などにも視野を広げて考察を試みた。しかしながら、報告者の力量の不十分さもあり、残された課題は多い。例えば顧炎武(1613〜1682)に端を発する「清代考証学」がそれである。清代においては、『詩経』の〈古韻〉を追究し、『詩経』を「聖典」として看做し、乾隆・嘉慶年間(1736〜1820)に隆盛を極め、音韻・文字・訓詁に関する研究がなされた。それは、江永(1681〜1762)・戴震(1724〜1777)あるいは段玉裁(1735〜1815)などによって引き継がれる。その意味でいえば、「清代考証学」とは「経典」解釈と「漢字」をめぐる思考が密接かつ不可分なものとして考えられるであろう。「清代考証学」の議論は、近世日本における「仮名遣い」や「漢字音」をめぐる国学言語論とパラレルに平行していくものだと考えられる。この議論は自身が負うべき今後の研究課題の一つであり、十分に検討余地のあるものだと思われる。

また「漢詩」という文芸は「韻文」に根ざしている限り、「音聲」とは切っても切り離せない。また歌論も「音聲」は逃れられないものなのである。その文脈に即していえば、「漢詩」と「和歌」を別々なものと看做すのではなく、相互に間テクスト性を有したものと考えるべきではなかろうか。さらにいえば、儒家言語論と国学言語論をめぐる視座を考える場合、思想史が陥りがちな各々の「詩論」や「歌論」が、「流派」として存在していたと考えるべきではなく、同じ「時空間」の中で、〈共有〉と〈差異〉をめぐるポリフォニックな多声性を帯びた動態的な思想空間として、近世日本思想史を考えていく必要があるだろう。その意味で文雄の『韻鏡』研究は、その視野を広げるものであることを改めて強調しておきたい。それは従来の国学言語論をめぐる思想史的記述を書き換えられるものを胚胎しており、さらに研究を深めるべきものだと報告者は考えている。

90年代から活発になった国民国家論は、《文字》と《音声》の二項対立図式のなかで、「文字の抑圧」という文脈から、音声至上主義批判をなしてきたが、《コトバ》とは、そのように単純なものではない。〈字〉と〈義〉と〈韻〉が複雑に絡み合った、「漢字」という言語を共有してきた東アジア世界は、また「漢字」をどのようにそれぞれの国に組み込んでいったかという過程も、決して同じではない。その中で〈共時性〉と〈差異〉の関係性を、諸々のテクストの中からミクロ的思考に基づく微細な「読み」によって、紡ぎ出していく必要があるのではなかろうか。

【参考史料】
江村北海『日本詩史』、岩波文庫、1941年。
太宰春台『独話』、『日本随筆大成』第一期一七巻、吉川弘文館、1976年
服部南郭『南郭先生燈下書』、『日本詩話叢書』第一巻、文会堂書店、1920年。
賀茂真淵万葉集大考』、『賀茂真淵全集』第一巻、続群書類従完成会、1977年。
賀茂真淵『語意考(清書本)』、『賀茂真淵全集』第一九巻、続群書類従完成会、1980年。
文雄『磨光韻鏡』、勉誠社文庫、1981年。
文雄『韻鏡指要録』、勉誠社文庫、1981年。

【参考文献】
《研究書》
宇佐美喜三八『近世歌論の研究』、和泉書院、1988年。
大島正二『〈辞書〉の発明』、三省堂、1997年。
__『中国言語学史』汲古書院、1997年。
__『唐代の人は漢詩をどう詠んだか』、岩波書店、2009年。
太田青丘『日本歌学と中国詩学』、桜楓社、1988年。
釘貫亨『近世仮名遣い論の研究』、名古屋大学出版会、2007年。
子安宣邦『「事件」としての徂徠学』、ちくま学芸文庫、2000年。
__『漢字論―不可避の他者』、岩波書店、2003年。
齋藤希史『漢文脈と近代日本』、NHKブックス、2007年。
__『漢文脈の近代』、名古屋大学出版会、2005年。
田尻祐一郎編『太宰春台・服部南郭』、明徳出版社、1995年。
徳田武『江戸漢学の世界』、ぺりかん社、1990年。
中野三敏『十八世紀の江戸文芸』、岩波書店、1999年。
中村春作編『「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語』、勉誠出版、2007年。
野口武彦『江戸文学の詩と真実』、中央公論社、1971年。
日野龍夫日野龍夫著作集第一巻 江戸の儒学』、ぺりかん社、2005年。
__『日野龍夫著作集第三巻 近世文学史』ぺりかん社、2005年。
__『江戸人とユートピア』、岩波現代文庫、2004年。
__『服部南郭伝攷』、ぺりかん社、1999年。
福永静哉『近世韻鏡研究史』、風間書房、1992年。
松下忠『明・清の三詩説』、明治書院、1978年。
__『江戸時代の詩風詩論』、明治書院、1964年。

《研究論文》
揖斐高「擬古論―徂徠・春台・南郭における模擬と変化」、『日本漢文学研究』4号、2009年。
白石真子「太宰春台の『詩論』」、『東方学』114号、2007年。
__「太宰春台の『読詩』の要領―『論語古訓外伝』を通して見る『詩』と孔子」、『漢文学解釈与研究』7号、2004年。
高橋博巳「文人社会の形成」、『岩波講座日本文学史 第9巻』所収、岩波書店、1996年。
__「徂徠学における《詩》について」、『日本思想史研究』5号。 1981年。
辰巳正明「国学における和歌論と明清詩学」、『國学院雑誌』107巻(11)。2006年。
張(チャン)文(ウェン)朝(チャオ)「荻生徂徠詩経観について」、『中国哲学論集』(31・32)。2006年。
中澤信幸「日本語学史 韻鏡研究の現在」、『日本語学』27巻(12)、2008年。
__「『磨光韻鏡』と『磨光韻鏡字庫』」『國語学』55巻(1)、2004年。
__「『広韻』と『古今韻会挙要』―江戸時代における〈韻書〉の盛衰」、『名古屋大学日本語学研究室 過去・現在・未来』所収、2002年。
中村幸彦「文学は『人情を謂ふ』の説」、『中村幸彦著述集 第一巻』所収、中央公論社、1982年。
__「風雅論的文学観」、『中村幸彦著述集 第一巻』所収、中央公論社、1982年。
__「清新論的文学観」、『中村幸彦著述集 第一巻』所収、中央公論社、1982年。
__「型の文章」、『中村幸彦著述集 第二巻』所収、中央公論社、1982年。
藍(ラン)弘(ホン)岳(ユェ)「徳川前期における明代古文辞派の受容と荻生徂徠の『古文辞学』」、『日本漢文学研究』3号。2008年。
__「徳川前期における漢文研究と翻訳」、『年報地域文化研究』10号、2006年。


(日本思想史学会2009年度大会報告。2009年10月18日)

文責:岩根卓史