【研究紹介】キム・スング『李箱、欲望の記号』(ウォルイン社、2004年)を読む

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1.要約

序論 1.研究史の検討と問題提起
第四章 分裂経験の記号としての「女性」
   1−1 売春婦の仮面イメージ
5.結論

※ 報告者の力量もあるため、重要な箇所であるところを原文引用しながら、適宜翻訳に務めた。ご海容願いできれば幸いである。

지금까지 이상 문학 이 서로 다른 시각을 지닌 영구자들의 지속적인 판심을 받고 있다는 사실은 이상 문학이 한국근대문학이라는 사실을 반증하는 것이라 하겠다.미달과 초월,결핀과 과잉이라는 양기성을 내보 한 이상의 기과한 글쓰기 작업에 대한 이해 가능 지점을 어떻게 포착해내는가 하는 과 제야말로 이상 문학 영구가 안고 있는 중대한 과제라고 할수 있다.그럼에도 불구하고 그러한 가능성에 대한 탐색은 항상 요령부득이라는 인상을 심어주기 마련이다. (p10)


〈訳〉今まで李箱文学が、互いに違う視角を持った研究者たちから、持続的な反証を受けているという事実は、李箱文学が韓国近代文学という事実を反証するものであり、未達と超越、回避と過剰という両義性を、李箱が記述化した作業に対し、理解可能な地点にまで、いかにして表現するのかということこそ、李箱文学研究が抱いている重大な課題だと言える。それにもかかわらず、そのような可能性に対する探究は、常に要領を得ない。

이처럼 여기저기 산재해 있는 이상의 텍스트를 전십의 형태로 체계화고 정리하는 차원에서 비롯된 대한 관심을 지금까지 다양한 차원으로 펼쳐겼다.이상 문학에 대한 영구가 곧바로 일제 강점 하 한국의 근대성에 대한 탐구로 직결되는 분위기가 형성되었다는 점이다.이런 특징은 이상 문학이 경성이라는 근대적 도시의 분위기 그 자체에서 비롯되었으며,또한 그의 문학이 근대화된 도시의 일상적인 경험 영역과 밀접한 관련하여 기존 영구들을은‘대도시(metropolis)’‘금대성(modernity)’더 나와가서는‘탈식민지(post-colonialism)’까지 포괄하는 다양한 정신사적 의미를 탐구하는 매개로서 이상 문학에 점근해왔다. (p18〜p19)


(訳)このように、あちこちに散在している、李箱文学を提示する形態にまで体系化し、また、かかる李箱のテクストを整理する次元から始まり、これまで李箱文学は、多大な関心を多様な次元から繰り広げられてきた。とりわけ、李箱文学に対する研究は、日帝支配下での韓国の近代性に対する探求へと直結する雰囲気が形成されたという点があげられる。かかる特徴は、李箱文学が京城という近代的都市の雰囲気そのものから始まったものであり、また彼の文学が、近代化された都市の日常的な経験と密接な関係があることは否めないだろう。それはまた李箱文学が影響されてきた「大都市(metropolis)」「近代性(modernity)」さらに言えば、「脱植民地(post-colonialism)」まで包括するような、多様な精神史的意味を探求する媒介として、李箱文学は検討されてきたのである。

1990년대의 이상 문학 영구는 이상을 근대성의 담지자로서 보고 주체와 한 경 사의 관게를 탐구하려는 노력을 경주하였는데,이와 같은 영구는 대체로 이상 당대의 문인들과의 비교 영구라는 틀에서 진해되었다.……이상 문학의 고유성을 해명하는 데 있어서 비교 영구는 필수적인 과정에서 이상 문학의 고유성을 해명하기보다는 비교 대상 양자의 차이점을 제시하는 데 그치는 한계를 노정하였다.어떻게 보면 이것은 여전히 이상을 독자적인 영구 대상으로 다룰 만큼의 시야가 학보되지 못했다는 반증이라고 볼 수도 있다. (p27〜p28)


(訳)1990年代の李箱文学研究は、彼を近代性の先駆者として考え、一時は、主体と死の関係を探求しようとする努力を試みるが、このような研究は概して李箱と同時代の文学者たちとの比較研究というフレームで行われてきた。……李箱文学の固有性を解き明かすのにあたり、比較研究は必須な過程ではあったが、李箱文学の固有性を解き明かすために、その比較対象との差異を提示しただけのものであった。どのように考えても、これらの研究は、相変わらず李箱を独自的な研究対象で扱うほどの視野が、未だに確保することができなかった反証として考えることもできるだろう。

특히 근대성의 문제를 중심으로 한 최근의 영구들은 이상 문학이 내포한 근대성의 문제를 다면적이고 심층적으로 탐구하고 있다는 사실 또한 학인할 수 있는데,이런 관심은 1930년대 한국 모더니즘 문학의 문제적인 징후가 이상 문학을 통해서 심층적으로 드러난다는 점에 대한 착목에서 비롯된 것이라 할 수 있다.그러나 이와 같은 일련의 성과들 못지않게 영구의 실제 양상을 검토해볼 때,지금까지의 이상 문학 영구에 있어서 몇 가지 문제를 지적 할 수 있다. (p31)


(訳)特に近代性の問題を中心にした最近の研究は、李箱文学が内包した近代性の問題を多面的で深層的に探求しているという事実も確認することができるが、このような関心は、1930年代における韓国モダニズム文学の問題的な兆しが、李箱文学を通じて深層的に現われたことに対する着目から始まったものと言える。しかしながら、かかる一連の成果を研究の様相を検討して見た場合、今までの李箱文学においては、いくつかの問題を指摘することができる。

《売春婦の仮面イメージ》(p189〜p205)

이렇게 볼 때 1920-30년대 담론을 풍미했던 ‘여성’은 남성의 육망과 볼안이 중첩된 시선이 마주친 타자의 응결체라고 할 것이다. 1920-30년대 들어 대증과 여성의
탄생은 소비문화의 학산에서 비롯된다.그 중심에 할리우드 영화를 경험이 놓여 있다는 사실은 새삼 주목 할 만하다.특히 영화 관람의 주체로 부상 한 여성에게 영화관이라는 매개로서 의미를 가지고 있다. (p192)


(訳〉このように見れば、 1920-30年代の論壇を風靡した 「女性」は男性の欲望と不安が折り重る視線は、他者の欠如体として考えられる。1920-30年代に入り、大衆と女性の誕生は、消費文化の拡散から始まる。その中心に、ハリウッド映画を経験が置かれているという事実は、注目するに値するものであろう。特に映画観覧の「主体」として浮上してきた「女性」は、映画館という媒介がいかなる意味があるのかを提起してくれる。

이상 문학에서‘매춘(買春)’이 쥬요한 모티프 가 되는 것은 도시 일상의 근대성을 집약적으로 체현하는 일상적인 양상이기는 하나,근대 사회에서 상품 형식으로 전락한 인간관계의 물화(refication)를 반영하는 은유로서 부상했다는 점을고려할 때,문학에서의‘買春’모티프는 남성이 마주한‘낭만적 사랑’의 활상과‘시각적 쾌락’의 좌절 경험을 표현하는 독특한 장으로서 의미를 가진다. (p192)


(訳)李箱文学において、「売春(買春)」が重要なモチーフであることは、都市的日常における近代性を集約的に体現する様相である。しかしながら、それが近代社会によって「商品」にまで転落した、人間関係の物象化を反映する隠喩として、浮上してきたという点を考慮する時、文学におけるモチーフは、「男性」が抱く「ロマンチック・ラブ」の表象と、「視覚的快楽」の挫折経験を表現する独特の「場」として意味を持っている。

《結論》(p261〜p270)

이상 문학은 1930년대 문학이라는 특수한 지형을 넘어 한국근대문학 영구의 보편성을 학인하는 얼개로서 중요한 위상을 부여받고 있다.한국문학 영구자로서 이상 문학에 대해 소논문 한 편 분량의 관심을 기울 이지 않은 사람은 없다고 해도 과언이 아닐 만큼 이상 문학 영구자들로부터 꾸준한 주목을 받아왔다. (p261)


(訳)李箱文学は 1930年代文学という特殊な地形を越えて、韓国近代文学研究の普遍性を確認するとして重要な位相を担っている。韓国文学研究者として、李箱文学に対して何らかの論文を書くような関心を傾けない人はいない、と言っても過言ではないほど、李箱文学は文学研究において、常に注目をおかれてきたのである。

이상이 창작 활동을 수행하던 1930년대초・중반은 식민지 조선에 대한 일제의 군국주의 재편 움직임이 활발하먼 시기였다.그리고 세계사적으로는 파시즘의 광범위한 대주로 인해 자유주의,휴머니즘 등 기존의 부르주아적 가치들이 몰락 운명이 점쳐지던 시절이었다. (p265)


(訳)李箱が創作活動を開始した 1930年代の初期・中期は、植民地朝鮮に対する日帝の軍国主義の再編をめぐる動きが活発ではない時期だった。そして世界史的にはファシズムの拡大によって自由主義ヒューマニズムなど、既存のブルジョア的価値が沒落する運命が占われた時代だった。

이상 문학을 근대성이라는 관점에서 접근하는 시도돌이‘제도의 근대성’에 주목했다면 본고는 이상 문학의 근대성을‘육마의 근대성’이라는 보다 심층적 층위에서 접근하고자 하였다.그와 접근을 통해 본고는 이상 문학이 근대 사회의 남성 주쳬가 처한 존재론적 위기의 드라마로서의 성격을 내포하고 있다는 점을 드러내고자 하였다. (p270)


(訳)李箱文学を、近代性という観点から近付く試みとして、「制度の近代性」に注目した本稿では、李箱文学の近代性を「欲望の近代性」という、より深層的に深めてみたものである。彼との接近を通じながら本稿では、李箱文学が、近代社会の「男性的主体」を処した存在論的危機というドラマとしての性格を内包しているという点を明らかにしようとした。

【感想】
韓国における李箱文学の新たな動向として、本書を取り上げた。本書の特色は、ラカン・ジジェク・バルトの理論的枠組みを基盤としながら、とりわけ、李箱文学に見られる男性性/女性性というセクシュアリティの問題に焦点を置きながらも、「都市」における〈近代性〉と李箱文学の関係性を論じたところにあるだろう。問題は「男性の主体」と「記号としての欲望」をいかに考えるのか、というところにあると思われる。これは本書の骨子になる論点なので、参加者の議論を待ちたい。その意味において、韓国文学研究における理論の受容状況と、それを李箱のテクストと照らし合わせて省察した研究として考えれば興味深い論点が浮かび上がってくるように思われる。

【考察】

崔真碩氏は次のように述べている。

〈近代の鳥瞰図〉としての李箱文学が、一九三〇年代という「現代化」や「近代の超克」が論議される時代に出現したことは、朝鮮が近代化する過程で抱えることになった諸矛盾を自己省察し総括していくうえで重要な文学史的意味を持っていた。また、〈近代の鳥瞰図〉としての李箱文学が戦時動員期へと移行していく「内鮮一体」前夜に出現したことは、〈近代化されながら自己を植民地化される〉という、複雑化する植民地状況を相対化するうえでも重要な文学史的意味をもっていた。そうした文学史的意味が示すのは、李箱は、朝鮮の近代を鳥瞰し続け、朝鮮の危機の時代を予感し続けていたということである*1

李箱は、確かに植民地期朝鮮における「近代性」の矛盾を予感し、難解なテクスト群を発表しつづけた。しかし、研究紹介で触れたように、彼は未だに「男性性」というものを臆面もなく振りかざした作家でもあった。李箱という〈オトコ〉は、「貞操」は認めるが、「恋愛」は認めない。

現在のわれわれの社会はしだいに恋愛化しつつある。恋愛の中でも俗な恋愛である。こうした社会の有様は、非常に危惧される現象である。……それは西洋から日本に入り、日本からこの地に入ってきた。*2

ここで強調すべきなのは、モダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)という時代的流行の中で、「十九世紀式」の〈恋愛〉観の足枷からは囚われていながらも、「売春婦」の存在は認めるとする、李箱が抱えているセクシュアリティの問題であろう。研究紹介で触れられているように「欲望の近代性」について、李箱は鈍感であった。研究紹介では、ラカンやジジェクなどの理論的引用を見事に駆使して、李箱におけるセクシュアリティの問題性を鋭く指摘している。京城と東京で「大都市」のモダンボーイとして生きた李箱は、その意味で〈近代〉のセクシュアリティに身を浸しながらも、一方で古めかしい響きを持つ「貞操」観念に縛られている。この意味において、彼のセクシュアリティの錯綜が見られるように思われる。報告者は、門外漢ではあるが、研究紹介書の「欲望の記号」という表題に引き付けながら考察し、李箱の短いながらも凝固された生涯を考えるならば、やはり「植民地期朝鮮」における自己矛盾した「欲望の近代性」を孕みながら、晦渋なテクストを産んだ一人の作家像が浮かび上がってくるように思われる。

(「外地」文学研究会報告。2009年7月24日)

文責:岩根卓史

*1:崔真碩「〈近代の鳥瞰図〉としての李箱文学」、『李箱作品集成』作品社、p387

*2:同、p357