〈サハリン/樺太〉という複数のクロノトポスーチェーホフ・譲原昌子・李恢成ー

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1.はじめに
  本報告で取り上げる人物は、その名声を勝ち得た人物もいれば、ほとんど研究者以外には知られていない人もいる。だが、本報告で分析する三人の作家は、〈サハリン/樺太〉というトポスのなかで、身を置き、固有の〈体験〉をした人物である。しかしながら、大日本帝国が植民地膨張路線をたどるなか、〈サハリン/ 樺太〉という植民地文学研究は、ほとんど顧みられてこなかったように思われる。理由はいくつか挙げられるだろう。まず、アイヌニヴフ・ギリヤークなどの 先住民の人々の問題。朝鮮人労働者たちの出自の多様性。
いまだに解決されてない、クリル諸島北方領土)に関する日露間における領土認識での溝の深さ。そして何よりも〈サハリン/樺太〉という「植民地」は、大日本帝国とソヴィエト・ロシアとのあいだで、分断されたことにより、ポストコロニアル研究の中でも、忘却されてしまっている島であること。このような歴史的 経緯から、遅々として〈サハリン/樺太〉における研究は進展がなされず、〈サハリン/樺太〉に言及する研究書は、驚くほど少ない。19世 紀末における帝政ロシアは、サハリンを流刑者たちが住む島として位置付けた。対して明治維新政府は、徳川幕府による蝦夷地開発の延長として、樺太に存在す る石炭資源の豊富さに目をつけ、積極的な拡大路線を取った。〈サハリン/樺太〉は、大日本帝国とソヴィエト・ロシアの「植民地」であったという「事実」に もかかわらず、その性格が、台湾・朝鮮・満州・オキナワとは全く様相が違うトポスなのである。テッサ・モーリス=鈴木は、そのジレンマについて、的確に指摘している。

日本の植民地という同じ条件下にありながら、樺太植民にかかわる記録は、朝鮮や台湾でのそれと比べると、極端にすくない。日本におけるアジア・太平洋戦 争関連の論争は、つねに、大日本帝国が果たしたアジアでの役割に、その焦点が当てられていた。すなわち、あの戦争を、アジア近隣地域への日本の帝国主義的 侵略であった、とみなすのか、あるいは(リヴィジョニストの解釈である)西欧の支配からアジアを解放する試みであった、とみなすのかである。ところが、「樺太の物語」は不都合にも、この論争の両者の立場に、うまい具合に包摂されえない性格を有したのであった。サハリンでの対抗勢力とは(アジア諸地域での場合と対蹠的に)日本と同様な拡張主義をとっていた後発のソヴィエト・ロシアであった。そしてこの島の先住民、あるいは東京政府の方針によって送り込まれた朝鮮人労働者たちは、日本の拡張主義の犠牲者であるのは確実なのだが、彼(女)らの「物語」は多層にからみ合い、そしてからみ合うがゆえに、歴史的に未検証な場合が多い*1

本報告が意図するものは、〈サハリン/樺太〉をめぐる複数のクロノトポスへの省察である。その導入として、19世 紀末帝政ロシアの文豪であった、チェーホフの〈サハリン〉体験から分析する。チェーホフ研究は数多くあるが、『サハリン島』というテクストは、『桜の園』 や『三人姉妹』などの秀逸な短編小説の書き手であったチェーホフのテクストのなかでも、異質なものである。単なる紀行文学としてその円環を閉じるのではなく、いかなる〈サハリン〉像が浮かびあがるのか、という点にとりわけ重点を据えて分析したい。次に〈樺太〉で生まれ育った、譲原昌子の代表作である『朔北の闘い』の物語構成に着目しつつ、当時の〈樺太〉における日本語文壇の動向などにもふれながら、その意味づけ再考するように促したいと考えている。そして 最後に、李恢成の『サハリンへの旅』を取り上げる。この紀行文を単に郷愁に浸るノスタルジーに依拠したものとして捉えるのではなく、「在日文学」という ジャンルで括られ、ポストコロニアル研究のなかでも中心的な主題として取り上げられることが多い、「在日文学」をめぐるアイデンティティへの考察に関し て、別の方向性を孕んでいるテクストとして『サハリンへの旅』を考えてみたい。まずは、チェーホフの『サハリン島』をめぐる考察を行うことにする。


2.チェーホフの〈サハリン体験〉―流刑者たちの島―

1890年7月11日。チェーホフは、まだシベリア鉄道も開通していない時に、汽船「バイカル」号でサハリンのニコラエフスクに到着した。チェーホフがいかなる理由で、サハリンへ赴いたのか、その動機は明らかではない。だが、『サハリン島』の内容から推測するに、流刑者たちの実地調査が主たる目的であったことは間違いない。『桜の園』や『三人姉妹』などの短編小説で、名声を勝ち得たチェーホフは、『サハリン島』では、終始一貫として、観察者の立場からサハリ ンを眺めている。しかし、サハリンというトポスが、地続きなのか、一つの島なのか、地理として判然とするのは、間宮林蔵の踏査によって、島であることが確認されてからである。サハリンは帝政ロシアにとって、重罰を受けた流刑者たちの島であり、チェーホフもその薄気味悪さを次のように叙述している。

最初のうち、わたしは面食らった。別に囚人たちがこわいというわけではなかったが、何となく気味がわるく、だし抜けに、こんなに近く彼らの傍に立つことが 奇妙に思えたのである。囚人や、流刑人たちは少数の例外を除いては、足枷もつけず、護送兵もなしに、自由に街路を歩いているから、一歩出れば、彼らが群を なしていたり、或は一人ぼっちでいるのに出会うのである。*2

流刑者たちの島。それがチェーホフからサハリンを見た姿なのである。そして、このテクストは、「調査」という名目で流刑囚を見る限り、それは帝政ロシアの後発植民地としてのシベリア流刑政策の延長線上に、サハリンというトポスが組み込まれている構図がくっきりと現れているのが伺えよう。

出来るだけ方々の居住地に滞在して、出来るだけ近く、流刑囚の大多数の生活に接するために、わたしは、自分の立場としては唯一であると思われる手段に訴えることにした。つまり、調査簿をこしらえたのである。行く先々の居住地で、わたしは、すべての小屋を回り歩き、その家の主人主婦・家族・同居人・雇人を記載した。この骨折りを軽減し、時間を短縮するために、助手を使ったらと親切に言ってくれた人もあったが、もともと調査簿を作るにあたって、わたしが、主た る目的としたところは、その結果ではなくて、調査の過程そのものが与える印象にあったので、わたしは極めて稀な場合にしか他人の助力を利用しなかった。 たった一人の人間によって、わづか三ヶ月にやってのけられたこの仕事は、本質的には、調査などと呼ぶことは出来ず、その結果が、正確と完全の点で優れたも のであり得る筈はないのであるが、しかし、文献の上にも、サハリン中の役所にも、これ以上に真摯な材料はないのである。だから、その点では、わたしの数字も或は役に立ち得るかも知れない、と思われる。*3

木原直彦によれば、帝政ロシアがシベリア流刑の延長として、サハリン流刑を強化したのは、1879(明治12)年のことであり、常時サハリンに流刑囚を送ることになったのは、1883(明治16)年になってのことである、と指摘している*4。この意味において、チェーホフの『サハリン島』というテクストは、流刑囚・監獄・先住民に対する「観察者」という視座から構成されているのは、もはや言を待たないであろう。

アイヌはジプシーのように色が浅黒い。頬髯は大きく、もじゃもじゃで、口髯もあり、髪は黒く、密で、剛い。眼はどんよりと濁って、表情に富み、柔和である。背は中ぐらいで、骨格はがっしりと、ずんぐりした方で、顔立ちは大柄で野蛮人臭いが、水夫B・ リムスキー・コルサコフの言葉によれば、彼らには蒙古人のぺしゃんこ鼻も、支那人の流れ目もないという。頬髯を生やしたアイヌはロシアの百姓に非常に似 通っている。実際、アイヌがわが国のチュイカのような独特のガウンを着て、バンドを締めたところは、商用馬車の御者そっくりである。*5

チェーホフは、このように〈サハリン体験〉を書き綴るわけだが、流刑者たちの島であると同時に、アイヌニヴフ・ギリヤークの人々が自由に貿易交渉を行う島でもあった。しかし、この時点では、サハリンが帝政ロシア大日本帝国が介入する「植民地」ではなかったことには留意すべきであろう。では、〈サハリン/樺 太〉を考える際、固有の〈体験〉を凝固させる方法ではなく、複数のクロノトポスを含意しながら、ロシアと日本からも、隠されてきた〈外地〉として、捉え直す切り口はあるように思われる。〈サハリン/樺太〉をめぐる省察を、次節では文豪ではなく、あまり知られていない日本語作家たちが活躍していく場として、1930年代の〈樺太〉に目を向けてみたい。焦点となるのは譲原昌子という作家である。

3.ショッパイ河二つ越えて―譲原昌子と〈樺太〉

譲原昌子は、1939(昭和12)年に『文芸首都』に掲載された『朔北の闘い』で、上半期の芥川賞候補に推薦された。この作品は、当時の樺太文壇に衝撃を与えた。譲原昌子は、1917(大正6)年に、両親とともに樺太に在住し、1941(昭和14) 年に東京で文筆生活をするため、離島した作家である。生涯のほとんどを樺太に身を置き、小学校の教師の傍らで日本語作家として、文芸雑誌『樺太』に小品を 出しながら、作家としての活動を続けていた。『朔北の闘い』は、彼女の代表作である。当時、樺太では「地方文学主義」を目指す文芸活動の拠点として、山野井洋が編集者となり、文芸雑誌である『樺太』が出版されていた。

譲原昌子は、本名・船橋きよの。1911年11月14日、茨城県東茨城郡沢村村で、父・捨吉、母・スズの長女として生を受け、樺太に渡った。その生涯のほとんどを樺太で過ごしていたことになる。1943(昭和18)年に、「樺太のことあれこれ」という小文を書いている。その述懐として、次のような「回想」をしている。

島に育った私は、チェーホフドストエフスキーツルゲーネフの作品に描かれているロシアの気候、風土、自然、情緒などが、なんとなし私の育った樺太に似 通うところがあったせいだったかもしれなかった。勿論この相通ずるものも、樺太はかつて流刑島として帝政露人が生活していたのだし、いまは北度五十度を国 境としてソ連領北樺太に続くので、当然のこととも言えるかもしれない。とにかく、帝政ロシアの小説を読むと、身じかに感じられるものが多いのだった。雪の 中に馬橇を走らせる情緒にしたがって、私にはぴったり触れてくるのであった。チェーホフの『谷間』という小説には、「鰊のはららご」のおいしさを納得して いる私は、その挿話を読みながら、司祭様だって〓を召し上がりたいのに無理はないと、思わず微笑したものだった。*6

ここから、譲原昌子の読書体験の一端をうかがえるように思われる。ロシア文学に親近感を抱き、創作活動を続けた作家という像が浮かび上がってくるのではなかろうか。本章が主題としている譲原昌子は、樺太の活気づいた様子を、『朔北の闘い』では、「自由移民時代」と描写している。まさに《ショッパイ河二つ渡って》来た人々である。

「生まれ故郷」ばかりが国でねえ。世の中広いど!」と故郷に見切りをつけた人々が、ぼろい一獲千金を夢みては、海霧の深い宗谷海峡を魚族のように渡ってく る頃であった。帝政露西亜時代、本土を追放された露人の流謫地であった樺太島は、領有後既に第一期創始時代を経て自由移民時代――森林黄金時代の波へ乗り かけていた。フユ達一家が、いわゆるしょっぱい河二つ――津軽海峡宗谷海峡――を越えて島に渡って来たのはちょうどフユが六つ、大正六年四月であった。*7

格清久美子は、本書とその前の習作である「闘い」との表現上の相違点を指摘しているが、ここでは作家研究を目的としていないため、これ以上は言及しない。*8問題は譲原昌子がどのような表現をしたのか、ではなく、樺太をどのように見たのか、というところにこそ、着目すべきであろう。例えばアイヌの特権であった漁を「密漁」する姿などである。

柳やたもの茂った川っぷちからいつか虎枝の蔽い被さっている野の道へ出た。夜目にも枯れさらばえた虎枝やエゾニュウの群が波濤のように揺れざわめいてい る。フユ達は全身びしょ濡れ、絞るようだ。中までぐしょぐしょに濡れ透っている。まったくうんざりするほどの遠い道。いつかの日に暮れ方に外側の爺っこに 連れられて帰ったことのある道だ。この内淵川畔に、魚を捕ったり獣を撃ったりしているして暮らしているアイヌ達の所へ、部落の和人達は焼酎や黒砂糖を携え て行っては、彼等の鮭だの毛皮などと取り替えるのであった。内淵川における鮭や鱒の漁獲は、樺太庁の特殊な土人保護法によって彼等アイヌのみに許されて あった。しかしアイヌのいわゆる和人達は、みすみす指を舐めてひっこんではいない。そこでは密漁が行われるのであった。*9

『朔北の闘い』は、フユの父の死で完結している。いってみれば、家族物語が輻輳としてあるわけだが、譲原昌子が〈樺太体験〉をした事実と虚構とのはざまで、このテクストは編まれたものだといえよう。しかし、それと同時にこれは〈外地〉日本語文学で、どのような位置づけをなされるべきなのか、より検討の余地を残 しているように思われる。次節では、李恢成の『サハリンへの旅』を俎上に据えて、〈サハリン/樺太〉というクロノトポスを再考してみたい。


4.運命としての〈サハリン〉―李恢成の『サハリンの旅』―

李恢成の『サハリンへの旅』は、1981年の二週間だけのサハリン滞在を著したものである。そこには、〈帰郷〉という単なる紀行文学の枠には収まらない、複雑な政治的背景を持つが故に、「在日コリアン作家」が書いた紀行文というフレームでは、もはや語れない。

私の父は、日本人の引揚げを横目で見ながら、自分たちも祖国に帰りたいといち早く考えるようになった。その場合、朝鮮からの引揚船に乗って祖国にいくという のは、もっとも望ましいものであったろう。しかしながら、それはきわめて空想的なものでしかなかった。解放直後の朝鮮は、「樺太」にいる朝鮮人のこうした 願望を実現するにはあまりにも遠いところにあった。朝鮮は、八月十五日の解放後まもなく、米ソ両国によって南北に分断され、右翼と左翼はみずからのヘゲモ ニーによる統一政府を樹立すべく争っていた。日本最北端の「樺太」まで流れていった同族のことなど、おそらく眼中になかったのではないか。よしんば、この 人々のことを考える政治家がいたとしても、具体的に何ら手を打たなかったのは歴史の事実どおりである。*10

自分たちが取り残されてしまうような感覚。そして望郷への思い。旧在樺の日本人は墓参できるのに、〈われわれ〉にはできないという歯がゆさ。恨みがましい 気分。すべてがないまぜになった、屈折した感情と、私たちはどう向き合えばよいのか。そして冷戦下という、既に私たちが忘却してしまった、歴史的状況。 〈そこ〉には、「滅多におとずれること」はできないのだ。

大使館からの帰路、神谷町の地下鉄がある方角にむかって歩きながら私は自分の考えを再吟味してみた。モスクヴァに立ち寄ることは取りやめ、サハリンに ずっと滞在していることだ。「ずっと」といっても、わずか二週間の期間しかないのではないか。私は今更のようにそのことに気づき、自分がどこか動転してい たために愚かしいミスをやらかすところだったのをさとった。モスクヴァはいつでも行ける場所であるが、サハリンは滅多におとずれることの出来ない極東の要 衝地なのである。そこは、国境地帯なのだ。地理上みてそうであるばかりでなく、政治上でもやっかいな懸案をかかえている島なのである。*11

ここで、1980年代前半の歴史的背景に触れておくべきだろう。1980年に光州事件が起こり、軍事独裁政権がまだ敷かれていたなかで、民主と自由を叫ぶ人権活動は、弾圧されていた。そしてソウル五輪の開催決定。李恢成はそのことについて、懐疑的な態度をとっていることに着目したい。

政治とスポーツは別個のものだという。一般論として、この解釈は、私にも受け入れられる。そうではなくてはいけないものだ、とさえいえるだろう。それゆえ 国家がスポーツを政治の道具として駆使しようとすれば、それはスポーツ精神を汚すものになる。韓国政府は、どうだろう。そういう質の悪いことをしない国家 権力なのだろうか。このソウル・オリンピック推進とはうらはらに、人権蹂躪が野放しにされ、さらに分断国家の永久化が図られるとすれば、この祭典は、民族 にとって嘆かわしいジョークとなり変わってしまう。こう考えるのは、懐疑的すぎるだろうか。しかし残念ながら、こうした疑いを、私は払拭できない。なぜな ら、こういう疑いが晴れるほど、韓国政府が近代国家として法の精神を遵守し、道徳的にふるまっているという本当の確証を、私は今のところ、残念ながら持ち合わせていないからである。*12

「回想」と「現実」のはざまで揺れ動く李恢成は、サハリンに在住するコリア系住民の老人の一言によって、ハッと気付かされる。「みんなパルチャ(運命)だよ、パルチャのせいだ。だれかを恨んではじまることじゃない」*13。そして、李恢成は、生まれ故郷であるホルムスクへの断ち難き望郷の念を次のように記述している。

私はこのホルムスクの市にもっと滞在していたかった。この市は、観光の市ではないから、とくに名所旧蹟があるわけではない。だから旅情をそそるような土地ではなく、旅行客にとってみれば一日もおれば次の予定地へ旅立ちたくなるような通りすがりの市にすぎなかった。だが、この地は私にとっては、世界中のどん な名所旧蹟よりも気に入った生れ故郷なのである。*14

『サハリンへの旅』というテクストは、単純なアイデンティティを求めるセンチメンタリズムに覆われたテクストではない。様々な思いが錯綜しているが故に、一言で答えを見出せる態度を常に拒み続けるテクストとして読むべきではなかろうか。

私は帰国を希望するサハリンの高齢者を思い浮べた。これら高齢者にとって切実なことは、一刻もはやく故郷の土を踏むことであって、いつおとづれるかもし らぬ祖国統一の日を待ちつづけるには、あまりにも自分自身の持ち時間が足りないのである。それゆえ、こうした同胞のために、南北朝鮮の両政権が今何をなし 得るのかという問題が生じてくる。南北両政府は、何が出来るのか。何をしなくてはいけないのか。もとよりサハリンの朝鮮人に門戸を開いて、さあ、いらっ しゃいと呼び込みをやってきたのは、朴政権であり、その衣鉢をついだ全政権である。後者の場合、前任者よりもやわらかいポーズをしめし、共産圏からの同胞 の帰国や祖国訪問を歓迎している。同胞愛をもって、受け入れるというのである。人権を保障するというのである。しかし、国内において、名だたる反共路線を 敷き、光州事件を血のりで弾圧し、政敵や反体制主義者をごっそりと監獄に押し込んでおいて、アムネスティ・インターナショナルからも「人権白書」などに よって非難されているこの強権が、社会主義国からの訪問者や帰国者を笑顔で迎え入れようというのだから、その真意がどこにあるのか、はなはだ理解に苦しむ のである。この国において反共法がほんとうになくなったという話を私はまだ聞いていない。民主主義が回復したという噂などは耳にしたくてもできない始末なのである。*15


5.むすびにかえて

〈サハリン/樺太〉をめぐる複数のクロノトポスへの省察は、錯綜してしまい、影の部分に光を当てることで、ややまとまりに欠けるものになったかもしれない。し かしながら、〈サハリン/樺太〉がどのような位置づけが出来るか、あるいはどのような切り口が有効であるのか。それは「植民地文学」という隘路から、抜け 出すためのささやかな試論として、本報告は位置づけられるであろう。また、チェーホフ・譲原昌子・李恢成のテクストは、それぞれの〈体験〉に時代的差異が あるため、省察になっているかどうかさえもあやしい。また、チェーホフに関しては、稚内北星学園大学の岩本和久氏から、貴重な意見を頂いた。現在のサハリ ンでは、チェーホフは「郷土の作家」という評価がなされており、ソ連体制末期頃に「コロニアリズム」的な視点から論文が出されたが、サハリンではそれをめ ぐって激しい論争が巻き起こったという。帝政ロシアでもソヴィエト・ロシア体制下でも、ロシアのナショナリズムは、「多民族融和」が根底にあり、オリエン タリズム的な視点から、〈サハリン〉を「語る」ということは、ロシア=サハリンというアイデンティティを崩しかねないものであり、さらにサハリンの諸民族 をソヴィエトが大日本帝国から解放したという公的な歴史観を揺るがしかねないため、日本のように〈外地〉として〈サハリン〉を研究するアプローチは、ロシ ア文学研究からはなされにくいという貴重な意見を頂いた。この場を借りて御礼を述べるともに、いかなる視点から、〈サハリン/樺太〉をめぐるクロノトポス を捉えることができるのか。本報告ではあまりにも心もとい部分もあるが、議論を待ちたい。

(「外地」文学研究会。2009年1月21日報告。文責岩根卓史)

*1:テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める』みすず書房、2000年。pp228-pp229。

*2:チェーホフサハリン島』上巻、岩波文庫、1953年。p56。なお、報告者の判断により、現代仮名遣いに改めた。

*3:同、p64

*4:木原直彦『樺太文学の旅』上巻、共同文化社、1994年。p480

*5:チェーホフサハリン島』下巻、岩波文庫、1953年。p15

*6:譲原昌子「樺太のことあれこれ」、『譲原昌子作品集』ゆまに書房、2001年。p289

*7:譲原昌子「朔北の闘い」、黒川創編『満州内蒙古・樺太』新宿書房、1996年。p51

*8:格清久美子「譲原昌子『朔北の闘い』考」、木村一信・神谷忠孝編『〈外地〉日本語文学論』世界思想社、2007年。p169-p184。

*9:前掲、p68

*10:李恢成『サハリンへの旅』講談社文芸文庫、1989年。p9。

*11:同、p32。

*12:同、p43

*13:同、p123

*14:同、p250

*15:同、p348