鷺沢萠を《非‐在日文学》として読むこと

これもPDF化されているので、ご参照ください。

――だから結局韓国ってさ・・・・・・。
ボトルはあらかた空に
なりかけている。かなり酔っているらしい義成が、後ろに伸ばした腕を突っぱって体重を支えるようにしながら言いかけた。その続きはもう聞きたくなかった。何べんも聞いたけれど、今は聞きたくなかった。
――うん、でも・・・・・・。
やっとのことで口を開いた。今まで黙っていた雅美がことばを発したので、みんながこちらのほうを見やる。
見ないでほしい、と雅美は思う。この中で誰よりも弱く、誰よりも参ってしまっている自分が、そんなことを言えた義理ではないと思う。
――うん、でも・・・・・・。
もう一度言ったときは下を向いていた。
――でも、あたしたちの国なんだよね・・・・・・。
下を向いたまま言ったとたん、唐突に冷たい涙が噴き出すようにして流れた。下を向いていたせいで、涙は頬を伝うことなく、直接床にあたって砕けた。


【はじめに】

鷺沢萠が突然の死を選んで、二年余という歳月が過ぎた。報告者が彼女の存在を知ったのは、その後のことだった。今になってはそれを後悔している。彼女にはいわゆる「在日朝鮮人」を主人公にした小説が幾つかあり、また韓国を題材にしたエッセイなども多く書いている。しかし、報告者にはそれらの小説やエッセイ、あるいは彼女自身の留学体験記である『ケナリも花、サクラも花』などを読み終えた時の感触は、つねに彼女は、「韓国」という〈植民地的過去〉を持ったトポスと、様々な「事情」を持った人たちとの関わりの中で考え、悩み、苦しむ。そして彼女自身もまた、《四分の一の祖国》が自らの血に流れているという自身の「事情」を引き受けながらも、この国に蔓延するステレオタイプ化されたイメージを拒み、そのようなレッテルを付ける側の人間に対して憤っているように思われる。(韓流ブームにより韓国に対するイメージ自体は変化したと一応言えるが)鷺沢萠は、インタビューの中で次のように言っている。

みんなよくわかってないんだろうな、と(笑)。すごく乱暴な言い方をすると、「在日文学を書くんだったら苦労を書け」みたいな、そういうのってちょっとおかしいと思う。だって正直言ってふつうの日本人よりお金持ちの場合が多いんですよ、在日の子って。親がベンツを持っていたりという子もたくさんいるし。「苦労というのもさ、人間にはいろいろな苦労があるからさ」と思っちゃうじゃないですか。そういう中でステレオタイプな在日の苦労話が、いわゆる在日文学というのになってしまうのは、残念だし、もうちょっと現実に即した等身大での在日像みたいなものを伝えていきたいとは思いますね。*1

鷺沢萠が「在日文学」というジャンルから逸脱しているのは、以下のような発言からもわかるだろう。

私の「事情」は、祖母が朝鮮人であること、そうしてその事実を二十歳を越えるまで自分自身が知らなかったことである。結論は出ないけれど、そういう「事情」を持った人間としての視点で、思い、考え、声を発する。*2

鷺沢萠の作品を通して思うのは、鷺沢萠という作家は、様々な「事情」を抱えた人たちを精一杯の思いやりで接し、彼女も彼らとは違うけれど、でも同じ祖国を持った存在であることの「もやもや」(彼女はこの言葉をよく使う)を《生》の基盤に置きながら、考え、思い、苦しみ、作品を書いた作家であるということしか今は言えない。だから、彼女の作品を解釈することで、私たちが無意識に求める「在日性」なるものを見つけることは出来ないし、さらに言えば、そこではある種の文学理論さえ役には立たないだろう。そのように彼女の作品群を「在日文学」としてカテゴライズするやり方は無意味ではなかろうか。《非‐在日文学》として、鷺沢萠の作品を読むこと。ここでいう《非-在日文学》とは、「在日文学」が「前提」としているあらゆるカテゴリーを拒絶し、距離を取りながら、作品を書く文学作品という意味である。本報告では、以上の視点により、『君はこの国を好きか』(1997)と、『ケナリも花、サクラも花』(1994)を素材にしながら、報告者なりにではあるが考察してみたい。

【《あたしはハングルに感電したのだ》―『君はこの国を好きか』を読む―】
 
断わっておくが報告者は、「在日文学」の研究者ではない。故に、研究蓄積にどのようなものがあるのかは、よくわかってない。しかし、中根隆行氏などの研究を参照にするならば、我々は「在日作家」という存在の中に、特定のモチーフを求めていたのではなかろうか。反日感情・民族的統一・ディアスポラ的状況・植民地過去など。例えば、李良枝の『由煕』は、ディアスポラとしての「在日」が背負う宿命によって、「故郷」の喪失と、二つの国の狭間での「裏切り」を受苦し、挫折する主人公由煕の姿が描かれている。李良枝論を述べる暇はないが、『由煕』が現在でも持ち得るラディカルな姿勢は、由煕が身体化された《コトバ》としての「日本語」と、由煕が学習しても身につかない《異国語》としてのハングルとの距離に関する鋭い描写である。その限りにおいて、鷺沢萠と李良枝を対比しても良いだろう。『由煕』の中の一節を引用してみよう。

口惜しさでからだが慄えた。
  何故いなくなってしまったのか。何故由煕はこの国に居続けられなかったのか、と今更どうしようもないとわかっているはずの疑問が、腹立たしさや火照りとなってつきあげてもいた。
  ――이(イ) 나(ナ)라(ラ)(この国)
  立ちつくした私の脳裡に、由煕の声がよぎっていった。自嘲するように呟いた日、他の言葉の間に皮肉と軽蔑をこめて吐き棄てるように言った日、苦し気に他の言葉に替えて言う言葉が見つからずにおろおろとしながら呟いた日。哀願するように言った日、さまざまな由煕の表情と同じ言葉の違った響きが思い出された。
  ――이(イ) 나(ナ)라(ラ) 사(サ)람(ラム)(この国の人)
  よぎる由煕の声は強い音をたてて弾けた。玄関のドアの、ギイッ、ギイッ、と擦れる音が声の記憶のあとに続いた。
  剥ぎ取ることはできなかった。
  二つの言葉の記憶には、由煕がさまざまな表情を見せていた分だけ、それらと対していた私自身の姿が重なり、塗り込められていた。日本語訛りというしかない発音と不確かさと抑揚の記憶にも、さまざまな日の思いが隠されていた。
  剥がしても剥がしても、記憶はかえって厚みを増していくように思われた。*3

李良枝は、とりわけ言語感覚に関する描写、すなわち由煕の《日本語訛りというしかない発音と不確かさと抑揚》によって、埋められない二つの国の距離間を表象している。由煕が使用する《コトバ》の中に「裏切り」を感じる「私」。由煕も同じように、《이(イ) 나(ナ)라(ラ)》に「裏切り」を感じる。由煕と「私」との個人的な関係がいつの間にか〈国〉に置き換えられ、構築されていく物語構造には、「在日」が抱く存在の不安定性を示唆しているかのようだ。

だが、鷺沢萠は、そのような存在として「在日」を描いていない。厳密に言えば、『君はこの国を好きか』の主人公雅美は、「在日」という存在の不安定性を内面化しながらも、「この国」とハングルに「感電」し、それへの親和性を抱く人物である。もちろん、雅美は「この国」に悩み、苦しむのだが、《ハングルに感電したあたし》という強固な決意を韓国と関わる過程で内面化し、韓国との関係を紡いでいこうと努力する。作品の前半は、雅美がアメリカ留学中に韓国人留学生ジニーとの交流を通じて、ハングルに「感電」していく姿が描写されている。

ジニーにはじめて会ったあと、雅美が彼女と同じ学生寮に入居したこともあって、雅美が渡韓を決意するまでの半年間は毎日のように二人で話をした。お互い意思を通じさせる手段が英語しかないから必死で話し、それは格好の英語会話の練習にもなった。だがそれ以上に、雅美はジニーからハングル文字を教わるのに夢中になっていった。
それには自分の血だとか国籍だとかはあまり関係がないように思えた。とにかく、これほどまでシステマティックに完成された表音文字に対して単純に「面白い」と感じない人間などいるものか、と思っていた……。*4

ジニーとの会話を通して、自らの存在根拠を問い詰められ、そしてハングルに「感電」する雅美。しかしながら、《ハングルに感電した》雅美は、「この国」を受け入れ、慣れようと思うたびに、雅美の身体がそれを〈拒絶〉していく。雅美が魅かれたはずのハングルが使われる「この国」。雅美の聴覚は、それは「声」ですらないものとして認識する。

怒鳴り声、罵声、金切り声、泣き声。感情を表明するためのありとあらゆる声が、そこら中にあふれ返っていた。それは雅美にとってはもう「声」ですらなく、ただの「音」に等しかったが、それらのものを書きあらわすとしたらやはり雅美の「感電」したハングルが使われるのだ。そう考えると気が滅入った。*5

雅美は「この国」が覆っている人間関係のある種の「濃さ」に慣れようと思いながら、慣れることの出来ない苛立ちを隠せない。それは「もやもや」として雅美の中で、全て処理される。在日僑胞の中でしか自らの感情を吐き出せないという困惑や悩み。ハングルに「感電」すればするほど、そして「この国」を好きになればなろうとするたびに。

――あたしはハングルに感電したのだ・・・・・・。
 どんな状態に陥っても――たとえこれより何キロ痩せようが――、あたしにはハングルがある、「韓国語」がある。*6

ハングルに感電し、韓国語を学びにここへ来た自分が、日本語で会話をできる在日僑胞の友人たちと一緒にいてはじめて安心している。自らの中に内包されたそんな矛盾のいちいちが、雅美にさらに深い孔を掘らせるのだった。考えまい感じまいとすればするほど、雅美の触手はさらに敏感になった。*7

冒頭で掲げた一節は、在日僑胞の友人たちとの会話の中で絞り出すように、雅美が呟いた言葉だ。「でも、あたしたちの国なんだよね・・・・・・」と。鷺沢萠の作品は、この意味において、私たちが求める「在日文学」というジャンルという〈型〉に即しながら、物語を進行させている印象を持つが、そうではない。物語の最後では、雅美は「この国」を勝手に背負っている存在であることに気付いていく過程が描写されている。

――아(ア)이(イ)고(ゴ)――、섭(ソプ)섭(ソッ)해(ペ)―
雅美はことばに詰まった。あなたが懐かしい、会えなくて寂しい、という意味だった。不意に鼻の奥が痛んだ。
 ――저(チョ)도(ド)여(ヨ)(私もです)・・・・・・。
やっとそう言うことだけできた。
電話を切ったあとも、雅美は長いこと受話器を握りしめていた。
姜先生は二年近くも前に、たった一学期だけ雅美を教えていたに過ぎない。雅美は姜先生がこれまでに受け持ってきた、おそらく数百という学生の中のひとりに過ぎない。
それなのに、姜先生は、雅美に「섭섭해」ということばをかけた。
不必要に人の生活に介入したくない。
関係ない人とは関係ないままでいたい。
他人とのあいだには安全な距離を保ちたい。
過剰な表現はしたくない。
そうだ。ずっとそう思ってきたし、二十余年間持ち続けたものが劇的に変わることはないだろう。
それでも。
それでも雅美は、姜先生のことばを聞いたとき、物凄く嬉しかったのだ。*8

物語の終わりは、「この国」に裏切られてきたという雅美の感情が溶解していく。物語の終着点は、鐘煕が雅美に「あんた、この国が好きやった?」という問いかけで終わるのだが、その問いには雅美の「なんだかこそばゆい」感触だけ表現されているが、そこに〈答え〉はあるだろう。その主題は、「この国」の前で立ち尽くすわけでも、同化しようとも、愛国心を抱こうとするわけでもない。一貫したテーマは、誤解を恐れず言うのであれば、「この国」との溶解である。鷺沢作品を《非‐在日文学》と、あえて表現してみたのは、かかるモチーフが読み取れるからである。鷺沢作品の《非‐在日》性は、『ケナリも花、サクラも花』で書かれる鷺沢自身の留学経験によって、ステレオタイプ化された「在日」像から自由になったと考えられるだろう。

【「だから、私は四分の一なんです」−鷺沢萠の留学体験―】
 
鷺沢萠と韓国との出会いは、『私の話』で言及されているが、祖母が朝鮮人であるという事実を知ったことがきっかけになっている。そして渡韓。鷺沢作品が初期に書いた一連の小説とは異なるものになったのは、その時期以降であることは明白だ。鷺沢作品は、前節で検討した『君はこの国を好きか』などに見られるように、「在日」をモチーフにした作品を書くことに費やしていく。しかしながら、彼女自身は日本国籍を持った「日本人」でしかないという意識に気付かされ、留学中の「在日僑胞」の友人たちとの関わりを通して、苦悩する様子がうかがえる。自分は僑胞ではない。にもかかわらず、韓国に留学している。
その象徴的な場面が、タクシーの中での運転手との会話に凝縮されているように思われる。韓国と鷺沢との間に薄く覆われた「氷の壁」。その「氷の壁」を前にして口ごもらざるを得ない自分。

「どこの国の人?」
「日本から来ました」
「あー、それじゃ僑胞か」
 わたしはそこで口ごもる。その「口ごもる」感じをどう説明したらいいのか判らない。それは「はい」と「いいえ」が喉の奥のほうでからまりあっているような感じで、そのくせ舌の上では今にもどちらかが出てきそうに転がっている。
・・・・・・・・・・・・
僑胞でしょ」
運転手が再び確かめるようにそう言うので、わたしは答えた。
「わたしにもよくわかりません」
言ってしまってから、自分で自分にびっくりしていた。
・・・・・・・・・・・・
「説明するのが難しいんです」
だからわたしは彼が声を発する前に、突然そんなふうに言い加えた。別に難しくもなんともありはしない。「祖母だけ韓国人です」。そのひと言が、これ以上はできないくらい簡潔な事実の説明だ。
――だからわたしは四分の一なんです。「四分の一の祖国」に対して、わたし自身はとても自然に感じられる関心と愛情を持ってこの国にきました。だけどさっきのおじさんの質問はわたしが僑胞なのかそうでないのか、ということであって、それに対する答えはわたしには判らないんです。*9

運転手からしてみれば、「どうでもいいこと」に対して偏狭になる鷺沢萠は、在日僑胞の中に入ってしまえば、僑胞ではないという存在であることを痛感する。どうあがいても、自分は僑胞にはなれないのだ。「そういう人」としての自分を再発見し、内面化していく作家は、この意味においても、「在日作家」とは呼べないだろう。

やはりわたしは僑胞ではないのだろうと思う。件のタクシーの運転手や他のさまざまな韓国人に言わせれば僑胞だけれど、ひと度僑胞の中に入ってしまえば僑胞ではなくなる、わたしは「そういう人」である。なぜなら、在日僑胞の中に混じれば、明らかにひとりだけ異質な自分がいるのだから。それはどう溶けこんでどうなじんでも、最終的には薄い氷の壁でヒヤリと区切られているような部分だ。あたり前の日本家庭に育ったわたしは、僑胞にはなれないのだと思う。*10

李良枝と対比する女性記者とのやりとりの中で、その実感は鷺沢のなかで湧いてくる。「韓国に愛情はありますか?」「それは祖国に対する愛情ですか?」「それは単なる好奇心でしょう」と矢継ぎ早に詰問する女性記者に対して、その質問自体が無意味だという苛立ちを押さえながら、鷺沢は次のように述べる。誰も「類型」にはまる「在日」などいないのだと。

彼女の中には「僑胞で、こちらに来てわざわざ韓国語を勉強している人間」の類型があって、わたしはそれに合致しなかったのだろうと思うのだ。もちろんわたしは故李良枝さんが、「類型」にはまっていたのだと言いたいのではない。彼女には彼女独自の考え方があって、苦しい部分があって、それは他の誰にも判らないはずだ。そうしてそう言えば「類型」に簡単にあてはまるような人間なんてあまりいないだろうとも思う。*11

「人には事情がある」と鷺沢萠は、「在日」に言及する度に、発する。それは「在日という類型」そのものを彼女が拒絶し、そこからでしか物事を考えることは出来ないし、作品も生み出せないという確信を報告者は感じるのだ。鷺沢萠の作品は、《非‐在日文学》そのものだし、やはり「在日」というものに回収してはならない物語として、読むべきではなかろうか。


【おわりに】
 これまで鷺沢萠の作品を《非‐在日文学》として読み解くことの意義を主張したわけではあるが、鷺沢萠の作品がどう読まれるべきであるかという問題は、そのテクスト群の内部に閉じるのではなく、開かれたものとするためには、より多くの検討が必要ではあろう。だが同時に、鷺沢萠が「韓国」という国と向き合いながら、考えた事は何かということを考察しなければならないだろう。その意味では、李良枝や柳美里などを参照軸にしながら、《非‐在日文学》としての可能性を探ってみるのも一つの方法かもしれない。しかしながら、今だけは彼女への鎮魂とオマージュとして、この拙ない論考を捧げることにしよう。鷺沢萠を一人の作家として考えるのは、「その後」でいい。それがここ二年余、彼女の存在を知ってから、自分なりにたどりついたひとまずの結論である。


(「外地」文学研究会報告、2006年。文責岩根卓史)

*1:重松清インタヴューによる鷺沢萠論:誰かの役に立ちたい−関係性の文学」。『文芸』2003年春号所収。

*2:「もっと、もっと」。鷺沢萠『ありがとう。』角川文庫、2005年、所収。

*3:李良枝『由煕/ナビ・タリョン』講談社文芸文庫、1997年、p258

*4:鷺沢萠『君はこの国を好きか』新潮文庫、2000年。p131

*5:同、p152。

*6:同、p167

*7:同、p176

*8:同、p228

*9:鷺沢萠『ケナリも花、サクラも花』新潮社、1994年。p40-p42

*10:同、p44

*11:同、p49