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 バトラー.J『自分自身を説明すること』(8)

「第三章 責任=応答可能性」より。

少し考察しておきたいのだが、「責任=応答可能性」ということで私が指しているのは、単に怒りの内面化や超自我の支えである強化された道徳感のことではない。まして、私が言及しているのは、自分が被ったことの原因を自分自身のなかに見出だそうとする罪責感のことではない。これらは確かに、傷や暴力へのありうべき一般的な応答ではあるが、これらはすべて、反省性を強め、主体を支え、自己充足の主張を支え、主体の経験的領野の中心性や不可欠性を支える応答である。フロイトニーチェの双方がそれぞれ異なる仕方で語っているように、疚しい良心は否定的なナルシシズムが取る形式である。そして、ナルシシズムという形式を取ることによって、それは他者、刻印可能性、感受性、そして可傷性から撤退する。フロイトニーチェが実に巧みに分析している疚しい良心の無数の形式は、主体性の道徳化形式が抑制しようとするまさしくその衝動を利用し、それを食い物にしているのだ。(p184-p185)