バトラー.J『自分自身を説明すること』(6)

こうした避けがたい倫理的失敗から新たな倫理の意味が現れることは可能だろうか。私は、新たな倫理は可能であり、それは認識そのものの限界を認めようとするある種の意志によって生み出されるだろう、と示唆しておきたい。自分自身を知り、提示すると主張して、私たちはある意味でそれに失敗してしまうのだが、にもかかわらず、この失敗は私たちのあり方に本質的につきまとうものである。私たちはむろん、他者から代わりに何か異なったものを期待できるわけではない。自分自身の、あるいは他者の不透明性を認識することは、不透明性を透明性へと変えることではない。認識の限界を知ることは、この事実を限定された仕方で知ることでさえあり、結果として知の限界そのものを経験することなのである。(p80)