バトラー.J『自分自身を説明すること』(2)

アドルノは、実存する個人の立場と意味を力説し、また道徳性の我有化という作業の不可欠さを力説するのに加えて、倫理的暴力の諸形式に反対する点で、ほとんどキルケゴール的である。しかし、アドルノはむろん、その正反対の立場に見られる誤りに対して警告を発している。それは、「私」がその社会的条件から切り離されて理解される場合であり、「私」がその社会的、歴史的な条件――結局それこそが、「私」そのものの出現の一般的条件を構成しているのだが――から切り離された、任意あるいは偶発的な、単なる直接性として理解される場合である。しかし、切迫した問いが残っている。つまり、この「私」とは何に存するのか、「私」はいかなる関係のなかで道徳性を我有化しうるのか、あるいはまさに、「私」を説明することができるのか、という問いである。例えばアドルノは次のように述べている。「道徳性、あるいは道徳に関するすべての観念は、行為する「私」」に関連している」。しかし、自らの出現の社会的条件から完全に独立した「私」というものは存在しないし、単に私的な、もしくは個人特有の意味を超えた社会的性格を持ち、「私」を条件づけるような、一連の道徳的規範に関与しない「私」も存在しない。(p15-p16)