バトラー.J『自分自身を説明すること』(9)

暴力は物理的な可傷性を浮き彫りにする。私たちはその可傷性から逃れることができないし、そうした可傷性を主体の名において最終的に解消することもできない。可傷性は、私たちの誰もが完全に拘束され、まったくバラバラに引き離されているわけではなく、むしろ剥き出しのまま、互いの手に、互いの寛容に委ねられているのだと理解する手段を与えている。この状況は私たちが選択しているものではない。この状況が選択の地平を形成し、私たちの責任の基礎をなしているのである。そうした意味で、私たちはこの状況に対して責任を負っているのではなく、この状況こそが、私たちが責任を負う条件を作り出している。私たちはこの状況を作り出してはいない。だからこそ、私たちはそれに留意しなければならないのである。(p187-p188)