バトラー.J『自分自身を説明すること』(7)

もしある人々が仮定するように、語りが、私たちのものである生を私たちに与えるのだとすれば、あるいは、その生が語りのかたちで生起するのだとすれば、そこには何が残るのだろうか。生の「ミメーシス」は必ずしもその語りの形式のことではない。物語を語り始めるとき、私たちは次のように言うかもしれない。これらの規範を通じて「私」自身を語ることに「私」が最初から同意する限り、「私」は外部性を通じて自分の語りを流通させることに同意するのであり、非人称的性格の発話様態を通じて語ることによって自分を混乱させることに同意するのである、と。もちろん、ラカンが明らかにしたように、主体が創始される原初の瞬間についていかなる説明がなされようと、それは遅延した幻想的なものであり、事後性[Nachtr〓glichKeit]によって不可逆的に影響を受けている。発達論的な語りは、こうした語りの語り手が物語の起源に存在しうると仮定するため、間違いをおかす傾向にある。起源とは遡及的にのみ、また幻想のスクリーンを通じてのみ存在するのである。自分自身を一貫したかたちで説明することが精神分析の倫理的任務の一部をなす、と主張する精神的健康についての規範は、精神分析のなしうること、またなさねばならないことを誤解している。そうした規範は事実上、主体形成の倫理的意義の一部を偽るような主体の説明に、同意を示しているのである。(p98-p99)