バトラー.J『自分自身を説明すること』(1)

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

Giving an Account of Oneself

Giving an Account of Oneself

「第一章 自分自身の説明」より。

第一にアドルノは、集団的エートスが支配をやめたときにのみ道徳的な問いが生起する、と主張する。これが示唆するのは、道徳的な問いは、適切なものとして一般に受け容れられたエートスを基礎にして生起する必要はない、ということである。実際、エートスと道徳性のあいだには緊張関係があるように思われる。それは、前者が欠ければ後者が満ちるといった関係である。第二に、集団的エートス(それはいまや引用符で括られるべきだが)が共有されることなど普通はないのだから――、それは自らの一般性への要求を、暴力的手段によってのみ押しつけることができるのである。その意味において、集団的エートスは、その集団性の外観を維持するために暴力を道具化する。さらにこのエートスは、それが時代遅れのものになるとたちまち暴力的になる。この倫理的暴力の形式について歴史的に――あるいは時間的に――奇妙なのは、この集団的エートスがすでに時代遅れになっているにもかかわらず、過去のものにはなっていない、という点である。それは時代遅れのものとして自らを現在へと押しつける。エートスは過去のものになることを拒否するのであり、暴力とは自らを現在に押しつけるその仕方のことである。実際、それは自らを現在に押しつけるだけではなく、現在を覆い隠そうともする――そして、これこそがまさに、集団的エートスの暴力的効果の一つなのである。(p11-p12)