「哲学への権利」上映会&討論会(立命館大学)参加記

大学で開催された西山雄二先生(首都大学東京)監督作品「哲学への権利」の上映会&討論会を拝聴してきました。

まずキャンパス内でも他学部の学生は、あまり関係していない建物に入ることは機会がない限りなかったので、充光館には「初潜入」でした。

そこで、素朴に湧いてきた疑問が、キャンパス内に映画館仕様の立派な教室があるなら、困窮に立たされている、ミニシアターでしか配給されていない良質な映画を、どんどん上映したらいいと思いました。

上映された「哲学への権利」は、映像に関する知識が個人的にないので、単純に楽しく見ることができました。

討論会の内容を事細かく覚えているわけではないので、少し個人的な感想を述べたいと思います。

まず、フランスにおける「哲学」という学問がもつ社会的地位の高さへの言及がなされました。

デリダは終生を通して、フランスのアカデミズムでは、「哲学者」としては認知されなかったと、西山先生はおっしゃられておりました。

主題である「国際哲学コレージュ」は、デリダが『条件なき大学』で語っていたように、単純化しえない流動的な外部への考察を、〈人文学〉に閉じこもらず、そうするべきではないと〈人文学〉で考える。こうした思想は強力で首尾一貫したモノとするために〈人文学〉が必要である。しかし、このような知的作業は、ユートピア的理想を描き出すものではなく、「分割可能な」限界が有する現実的な外の力に対して、自らが思考しようとする世界との抵抗の場として、大学は存立するのだと。

そのような知的実践の場として、「国際哲学コレージュ」が果たしている役割については、まず博士論文などの研究に従事している、若い世代の学生の発言権があまりないというフランスにおける現状のなかで、国際哲学コレージュが果たしている「場」としての役割の指摘は、興味深かったでした。

ひとつ疑問なのは、映像作品で触れられていた「国際哲学コレージュ」の知的実践としての「領域交差」と、英米圏の「カルチュラル・スタディーズ」との差異に関して、意見を交わすシーンがありました。とりわけ、カトリーヌ・マラブーはうんざりするような口調で、英米圏の「カルチュラル・スタディーズ」が教義(ドグサ)になりつつある現状を批判しています。そこには英米圏における「フレンチ・セオリー」の受容のあり方が抱えている問題があげられるでしょうが、もう少し背景などが聞けたらよかったと思いました。

総じて有意義な時間を過ごさせていただきました。

哲学への権利

哲学への権利

条件なき大学―附:西山雄二「ジャック・デリダと教育」

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フレンチ・セオリー ―アメリカにおけるフランス現代思想 (.)

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