バトラー.J『ジェンダー・トラブル』(4)

第3章「攪乱的な身体行為」より。

『性の歴史』でフーコーは、解放主義や自由主義のモデルとしてセクシュアリティを捉える見方に対して、はっきりと反対の立場をとっている。そういったモデルは、カテゴリーとして――つまり権力関係を曖昧化する「結果」として――「セックス」を歴史的に生産していることを認めない法制的モデルに賛同するものであるからだ。彼がフェミニズムと問題を起こすように見えるのは、おそらくここである。……彼の見方によれば、フェミニズムの解放モデルの構造となっている法の法制的モデルの前提には、解放主張がある。だが人間主義による刑務所改革の試みについて論じたときと同じく、解放後の犯罪者の主体は、人間主義が考えている以上に、解放前よりもきつく拘束されているかもしれないのである。フーコーにとって性別化されるということは、一連の社会的規制を、セックスやジェンダーや快楽や欲望を形成する原理として、かつ自己解釈のための解釈原理として存続させようとする法を、所有してしまうことになるのである。したがってセックスのカテゴリーは、必然的に規制的なものであり、このカテゴリーを前提とした分析はどれも、権力/知の体制という規制戦略を無批判に拡大し、その合法化を推し進めるものとなる。(p175)