ヤング.J『排除型社会』(6)

本質主義を拒否するのであれば、多文化概念もまた捨てられなければならない。多文化主義は、さまざまな文化的本質をまるでモザイクのように並べ、それぞれの歴史的過去に接着しようとする。このような観点は、たんなる自然的エポケーにすぎない。つまり、それぞれの文化の本質はまったく変化せず、互いに侵害することも争うこともないと信じているのだ。ところで、本質主義や多文化主義を否定することは、多元主義や多様性を否定することではない。それらを否定すれば、万人の合意からなる居心地よい過去のノスタルジーに回帰しようとする保守主義者と同じ誤りに陥ることになるだろう。そうではなく、後期近代の世界に生気をもたらしているのは、あくまでもさまざまな文化の共存なのである。というのは、たんにそうした世界が魅力的で望ましいからというだけでなく、もはや単一文化の落ち着いた「古きよき時代」には戻ることはできないからである。さまざまな文化の糸が縒りあわされ、それぞれの糸の色が混じりあい、変わっていくのは、多元主義によってである。そのような世界は、隔離と同化ではなく、交錯と雑種化(ハイブリッド)から成り立つ世界である。その世界では、文化はつねに変化し、ときに消滅することもある。また、そこでは差異も、新たな相乗作用からつねに生み出されることになる。(p277-p278)