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 ドゥルーズ.G『フーコー』(2)

ドゥルーズ

確かに私たちは、語や文や命題から出発することを強いられる。ただ私たちは、提起された問いにしたがって変化する限定されたコーパスにこれらを組織する。これはすでに「分布主義」の学派、ブルームフィールドやハリスの要求したことであった。しかし、フーコーの独創性はコーパスを限定する彼独自の方法のうちにある。……フランソワ・エヴァルドは、フーコーコーパスは「出典のない言説」であり、この古文書学者はできるだけ偉大な名を引用することを避けている、と言っているが、これは正しいのである。つまりフーコーは、基礎となる語、文、命題を、構造によって選択したり、それを生み出す主体−作者によって選択したりするのではなく、それらがひとつの集合のうちに実現する単なる機能によって選択するのである。……私たちは、言語がこのコーパスに集中し、コーパスに「落ち着く」ような仕方を限定することができる。それは『言葉と物』が語った〈言語の存在〉であり、また『考古学』が語った〈言語が存在する〉であり、それぞれの集合にしたがって変化するのだ。それはまた、考察されるコーパスにしたがって、いろいろな様相を呈する無名のつぶやきにほかならない〈誰かが話す〉である。だから私たちは、語、文、命題から、それらを区別される言表をとりだすことができる。言表は、語でも文でも命題でもなく、ただこれらのコーパスから抽出される形成物なのである。このとき、文の主体、命題の対象、語のシニフィエなどは、〈誰かが話す〉のなかに場所を占め、言語の厚みのなかに配置され、分散されながら、性格を変えるのだ。フーコーのなかにつねに存在するパラドックスによれば、言語が一つのコーパスに集中するのは、ただ言語が、言表の配置あるいは分散の環境になるため、本来的に分散するものである言表の「族」の規則となるためにすぎない。この方法は全体として厳密なもので、様々な度合で明白に現われ、フーコーの著作のすみずみで実践されている。(p39−p42)