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 平野嘉彦『ツェラーンもしくは狂気のフローラ』(1)

しかし、植物を名ざし、分類し、その成育条件を考えるということは、そうした営為は、どのような歴史的な蓄積をもち、どのような思想にささえられてきたのだろうか。そして、それは文学とどのようにかかわっているのだろうか。叙情詩の解釈に、いわば植物分類学的思考を導入しようとすることは、かならずしも叙情詩を科学的に分析しうる対象として扱うことを意味しない。むしろそれは、そうした分類学的思考そのもののもつイデオロギー的な性格を歴史的、批判的に反省することでなければならないだろう。植物分類学、そしてその上位概念であるところの博物学とは、そもそも何か。「博物学」の原語は、英語ではnatural history´ドイツ語ではNaturgeshichteだが、このhistoryないしGeschichteの語は、まさに歴史的な経緯にもとづく、ある独特のニ義性をはらんでいる。百科事典によれば、「自然」の「動物、植物、鉱物」の「種類、性質、分布などの記載とその整理分類」を事にするかぎりにおいて、「博物学」は「自然誌」とも称される。しかし、そうした「自然」は「歴史的に形成されたものであるという認識」が生まれるにつれて、「博物学」はおのずから「自然史」とも見做されるようになった。すなわち、「博物学」とは、「自然」の言語化であるとともに、「自然」の歴史化でもあったのである。しかし、言語によってこそ、はじめて歴史は記述される、という以前に、そもそも言語に先だって、歴史は存在しなかったはずである。それが言語をもってする営みであるからこそ、おのずから歴史が生成しえたのだから。歴史は、まさに「史」、すなわち「ふみ」なのである。(p13-p14)