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 『新しい貧困』(3)

近代的な生活のあり方は、持続的で止むことのない世界の更新から成り立っている。ものごとを異なったものに、おそらく、それまで以上に、そして現在よりもよくしようとする衝動、そうしたものを促す衝動にそれ以上の力を加える実践を伴う衝動が、通常、「近代化」と呼ばれている。近代化を「近代」への道、つまり「近代になる」結果をもたらし、いったん、その仕事が終わったら、完遂したその使命を停止してもよい、一連の行動と解釈すべきではない。近代化こそが近代そのものである。近代は一度止まると消滅してしまう。近代化、つまり、世界と人間の生活様式の強迫的で中毒的な「再発明」は、「近代的な生活様式」と同義である。恒久的で継続的な近代化が近代を構成する特徴であり、どちらかというと変更を伴わない社会の再生産に傾きがちな、その他の(「伝統的な」)人間の経験のあり方とは異なる存在様式である。



しかし、近代史のかなりの期間にわたって、近代化は、その内部の自動推進的な傾向とは逆に、有限の過程であり、「終了ラインでの」開始であるとみなされていた。その目的は、引き継がれるその膨大な未完成、不調和、無意味な事柄の状態を浄めることであり、その結果、それは、それ以上の修正も、もちろん修理も総点検も求めない形に到達する可能性があった。たとえば、いったん、人間の欲求の総和が満たされることが社会の生産力の発達によって可能になれば、経済は「定常状態」に落ち着いて、その状態にとどまり、さらなる「経済成長」が目指されても、それが原因となる必需品の欠乏や貧困と同じくらい破壊的で均衡を崩すものとなるため、近代化の価値は、(その究極の目的地である)合理的な社会の見通しに完全に由来する、道具的なものとみなされた。



だが、資本主導型の近代化は、そうした予想を裏切るものであった。資本主義は、その歴史の最初の段階で、その勢いを「処女地」の征服と植民地化に求めた(生産者と生産手段を切り離し、事業活動と家内経済を切り離し、それによって、「前近代」的な生活様式を市場経済の軌道に乗せ、それを資本主義の牧草地へと変化させた)。いったん、その仕事が終わると、資本主義への転換のための「処女地」は、仮にあったとしてもほとんど残っておらず、近代資本主義社会のさらなる存続は、すでに近代化された生活の諸側面の近代化に頼ることになった(現在流行の「資産の収奪」という概念に要約されるプロセス)。こうした重大な転換は、これまで永続していても気づかれることのなかった近代の創造性の特徴、つまり破壊との密接な結びつきに光を当てることになった。(p168-p169)