ホルワード.P『ドゥルーズと創造の哲学』(2)

今や一義性はいかなる意味においても画一性を含意しない。逆に一義性は、一次的で無制約的な差異化のための基礎にして媒体として、肯定される。何かが十全に存在するには、それが一つの過程に巻き込まれ、したがって消耗されることが必要であり、この過程によってそれは別のまたは新たな何かとなる。「存在とは変質である」(DI,25)。一切が創造であるという断定の第三の含意はしたがって、この創造性がそれ自体として持つ、固有に原理的な地位である。ドゥルーズの存在論は存在の甦生または再活性化を意図しており、それによって存在に原初的で還元不可能な力動を授けようとする。一九八八年にドゥルーズが断言した通り、「私が書いたものは全て生気論的です、少なくともそうであることを望んでいます」。存在は生きている、それは生体だからである。存在は創発的である、それは創発だからである。存在は刷新的である、それは刷新するからである。存在は差異化されている、それは差異化するからである。存在することと差異化することは一つの同じことである。(p36)