『ポストフォーディズムの資本主義』(5)

言語的動物の(自己)破壊衝動がつねに新たに国家的綜合を増強させ完成させる、という弁証法的図式を捨て去ろうとして、現代の批判哲学ーーチョムスキーからフランスのポスト構造主義までーーは、おのれの地平から弁証法とともに(自己)破壊衝動をも完全に削除するのが好都合だと考えた。こうして現代の批判哲学は、「国家に敵対するラディカリズムは、人間の本性が根本的に善良であるという信頼の深さに比例して増大する」というシュミットの診断を補強してしまったのだ。明らかに袋小路である。弁証法の選横を避けようとして否定を廃止するよりも、否定の非弁証法的な理解を発展させなくてはならないだろう。


このとき次の三つのキーワード、〈アンビバレンス〉、〈揺れ〉、〈不気味なもの〉が役に立つ。〈アンビバレンス〉、すなわち、非家族的な友愛、政治的共同体の本当の核心は、党派間や部族間の虐殺を唆すような、敵意に満ちた家族的つながりへと転覆する危険につねに晒されている。解決となる第三項あるいは弁証法的な綜合あるいは高次の均衡は存在しないのだ。ただ一方の極と、他方の極があり、むしろ他方は一方にすでに含まれており、同じ透かし模様の両面とも言える。〈揺れ〉、すなわち、同種族間における相互認知は、最初の失敗から部分的な成功まで、休みない振り子運動を特徴とする。〈不気味なもの〉、恐ろしいものは決して異常なものではなく、われわれが極めて慣れ親しんでいるものであり(刺激の過剰、圧倒的に重要な言語的構造)、さまざまな場合において、保護的な機能さえ遂行する、もしくは遂行しうるものである。(p190-p191)