『スピノザ入門』(3)

すなわち、コギト〔「私は考える」というデカルト哲学の基本命題〕あるいはその代わりになりうるいっさいである。「人間は考える」という公準が置かれている(これはよく知られたことがらの〔単なる〕確認であって、〔デカルト〕の「私は考える」ではない)。思惟以上に決定的なものはないが、思惟ほど基礎づけに関わらないものもない。それは、ジル・ドゥルーズの見事な定式に従えば、意識を追い越している一個の思惟である。ある主観がそれに気づくより以前に思惟が存在するのである。言ってみれば、これ以降の全テクストは、むしろいかにして主観性が構成されるかを示そうとするものであるが、ただしそこでの主観性とは、局所的で部分的で欠落的なものなのである。


ここでわれわれは『知性改善論』で述べられていたもろもろの知覚様式を再発見する。ただし、別の名称、別の観点においてである。人間身体が以上のように規定されたことによって、認識論という角度からではなく、多様な認識の生成に関する理論の枠内で、それら知覚様式を表現することが可能となるのである。すなわち、各々の知覚様式が、身体と精神との構成によって必然的な仕方で生成される、ということを示すことが可能となるのである。これを真の「歴史的な科学認識論」と呼ぶとしても、その意義を強調しすぎることにはならないであろう。(p99-p100)