『来るべき書物』(2)


「今どこに?今だれが?」より。

このような根源の接近こそ、作品の経験を、それを耐えている人間にとっても作品そのものにとっても、ますます脅威的なものと化するものだ。しかしまた、この接近だけが、芸術を本質的な探究と化するのであり、また、もっともけわしいかたちでこの接近を感知しうるものとしたために、『名付けられぬもの』は、文学がわれわれに与えている「成功した」作品の大半とくらべて、文学にとってはるかに重要なものなのである。「自分が嘘っぱちだし、話していることに何の関心もないし、たぶん年をとりすぎても、おりはずかしめられてすぎてもいるから、それを限りに黙らせてくれるような言葉を、けっして語りえないことを知りながら、喋っているあの声」を聞きとるようにつとめてみよう。ものを書くために、時間の不在のなかに落ちこんだ人間が、以後、語に身を委ねながら没していくあの中性的領域、彼が、終りのない死によって死ななければならぬあの領域に、くだってゆくようにつとめてみよう。「・・・・・・言葉はいたるところに、ぼくのなかにも、ぼくのそとにもある、何てことだ、さきほどぼくには密度というやつがなかった。言葉がきこえる、聞く必要はないし、頭も必要じゃない、言葉をとどませることは不可能で、ぼくは言葉のなかにいる、言葉で出来ている、他のものの言葉で、他のものって、場所でもあり、空気でもあり、それに、壁や、床や、天井や、言葉ども、全世界は、ここに、ぼくといっしょにいる、ぼくは空気で、壁で、壁に閉じこめられた者だ、すべては屈服し、開き、流れ出、逆流する、雪片、ぼくは、交叉し、ひとつに結ばれ、また別々になるあのすべての雪片だ、ぼくは、どこへ行っても、自分を見つけ、自分を捨て去る、自分におもむき、自分からやってくる、いつもただ自分だけ、自分の切れっぱしだけ、そいつが取戻され、失われ、取逃される、言葉ども、ぼくはあのすべての言葉だ、あのすべての見知らぬやつら、あの言のほこりだ、散りしく地面もなく、飛び散る空もなく、それらは互いに出会い、また互いにのがれあっては語るのだ、ぼくがそれらのすべてだ、と、ひとつに結ばれたものたち、相わかれたものたち、互いに知らぬものたちで、それ以外のものではないと、いや、そうじゃない、まったく別のものなんだ、ぼくがまったく別のものだと語るのだ、沈黙せるひとつの物、それがいる場所は、固くて、空虚で、閉じていて、乾いていて、明確で、暗くて、そこでは何ものも効かない、何ものも話さない、そしてぼくは、耳をすまし、聞きとり、探し求める、まるで檻で生れた動物で、そいつは檻で生れた動物の檻で生れた動物の檻で生れた動物の檻で生れた・・・・・・」(p309-p310)