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 バシュラール.G『水と夢』(2)

「結論:水のことば」より引用。

宇宙においてはすべてがエコーである。もし鳥たちが、夢想的ないく人かの言語学者の意向通りに、人間に霊感を与えた発声主体であるとすれば、彼ら自身が自然の音声を模倣したのだ。ブルゴーニュとブレス地方の音に長い間聞き入ったキネは、「水鳥の鼻声のなかに岸辺の波音や、水の喘ぎのなかに蛙の鳴声や、鶯[の鳴き声]のなかに芦の音や、フリゲート艦の[帆音]のなかに嵐の叫び」を見出している。廃墟における地下室の反復するエコーを思わせる、あの振動して戦慄する声を、どこで夜の鳥は獲得したのだろうか?・・・・・・このように根元的な共感で聞かれた声が、どうして預言的音声でないことがあろうか?物にその神託的価値を返すために、近くあるいは遠くからきかなければならないのか?物がわれわれを催眠術にかけるのか、あるいは物を静観しなければならないのか?想像的なものの二つの大きい動きは、物体の近くで誕生する。すなわち、自然のあらゆる個体は巨人や侏儒を産み、波の音は空の広大さやあるいは貝殻の空洞を充たすのだ。これは活動する想像力が生きなければならぬ二つの動きなのだ。それは近づく声あるいは遠ざかる声を意味するのにほかならない。物に聞き入る者は、それらがあまりにも強くまた静かに話そうとすることをよく知っている。急いで聞かなければならない。すでに滝は砕け落ち、あるいは小川がつぶやいている。想像力は擬音係であり、音を拡げるかあるいは鈍くしなければならない。ひとたび想像力が力動的な万物照応の主人となれば、イマージュは真に話すのだ。(p276-p278)