『釋迢空ノート』(5)

小野十三郎の迢空への反論に、「外の世界を清掃する義務をもつ」があった。迢空は、自分は短歌に見切りをつけ、未練で歌をつくっているがこれからの若いひとはごうすとの徘徊する短歌世界の「外」で詩を書いてくれといったのだった。小野ははじめから「外」にいる。「外」にはごうすとは不在なのか。「外」には姿は見えぬが「短歌的なるもの」「短歌的叙情」にみちみちていると小野はいいたいのである。それらこそまさにごうすとだろう。若い人に「外」へいけというならきれいに掃除してからにしてほしいというのである。迢空は短歌という「内」側に居つづけて、批評家としては短歌の宿命を熟知し、見切りをつけ、絶望し、作家としては「未練」とうそぶきつつ一歩でも「進む」ために歌をつくる。「内」に居つづける迢空は、「外」のごうすとを実感していない。したがって、「短歌」にしたような「科学」をそれらにはなしえない。(pp339-pp340)