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 バトラー.J『生のあやうさ』(3)

最近のグローバルな暴力に照らして私にとりついて離れない問いがある。誰が人間として看做されているのか。誰の生が〈生〉と見なされているのか?そして究極的に何が生をして悲しまれるに値するものとなるのか?・・・・・・失うことで私たちは皆はかろうじて「私…

 バトラー.J『生のあやうさ』(2)

アメリカ合州国が起こした戦争の犠牲者の死を悼む記事はない。あり得るはずがないのだ。もし死亡記事があるとすれば、そこには生が存在していたことになる。心にとめておく価値のある生が、評価し記憶にとどめておくに足る生が、そこにはあったことになるだ…

 バトラー.J『生のあやうさ』(1)

生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学作者: ジュディス・バトラー,本橋哲也出版社/メーカー: 以文社発売日: 2007/07/31メディア: 単行本 クリック: 34回この商品を含むブログ (21件) を見るPrecarious Life: The Power of Mourning And Violence作者: Judith But…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(9)

暴力は物理的な可傷性を浮き彫りにする。私たちはその可傷性から逃れることができないし、そうした可傷性を主体の名において最終的に解消することもできない。可傷性は、私たちの誰もが完全に拘束され、まったくバラバラに引き離されているわけではなく、む…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(8)

「第三章 責任=応答可能性」より。 少し考察しておきたいのだが、「責任=応答可能性」ということで私が指しているのは、単に怒りの内面化や超自我の支えである強化された道徳感のことではない。まして、私が言及しているのは、自分が被ったことの原因を自分…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(7)

もしある人々が仮定するように、語りが、私たちのものである生を私たちに与えるのだとすれば、あるいは、その生が語りのかたちで生起するのだとすれば、そこには何が残るのだろうか。生の「ミメーシス」は必ずしもその語りの形式のことではない。物語を語り…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(6)

こうした避けがたい倫理的失敗から新たな倫理の意味が現れることは可能だろうか。私は、新たな倫理は可能であり、それは認識そのものの限界を認めようとするある種の意志によって生み出されるだろう、と示唆しておきたい。自分自身を知り、提示すると主張し…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(5)

「第二章 倫理的暴力に抗して」より。 倫理的暴力は、私たちが自己同一性を絶えず明示し、維持するよう要求するのであり、また他者にも同じことを要求する。これは、避けがたく時間の地平内で生きる主体にとって満たすことが――不可能ではないにせよ――困難な…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(9)

暴力は物理的な可傷性を浮き彫りにする。私たちはその可傷性から逃れることができないし、そうした可傷性を主体の名において最終的に解消することもできない。可傷性は、私たちの誰もが完全に拘束され、まったくバラバラに引き離されているわけではなく、む…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(8)

「第三章 責任=応答可能性」より。 少し考察しておきたいのだが、「責任=応答可能性」ということで私が指しているのは、単に怒りの内面化や超自我の支えである強化された道徳感のことではない。まして、私が言及しているのは、自分が被ったことの原因を自分…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(7)

もしある人々が仮定するように、語りが、私たちのものである生を私たちに与えるのだとすれば、あるいは、その生が語りのかたちで生起するのだとすれば、そこには何が残るのだろうか。生の「ミメーシス」は必ずしもその語りの形式のことではない。物語を語り…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(6)

こうした避けがたい倫理的失敗から新たな倫理の意味が現れることは可能だろうか。私は、新たな倫理は可能であり、それは認識そのものの限界を認めようとするある種の意志によって生み出されるだろう、と示唆しておきたい。自分自身を知り、提示すると主張し…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(5)

「第二章 倫理的暴力に抗して」より。 倫理的暴力は、私たちが自己同一性を絶えず明示し、維持するよう要求するのであり、また他者にも同じことを要求する。これは、避けがたく時間の地平内で生きる主体にとって満たすことが――不可能ではないにせよ――困難な…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(4)

確かに私たちは、まだ自分の物語を語ることができるし、まさしくそうしなければならない多くの理由が存在するだろう。しかし、ある語りの構造をそなえた完全な説明を行おうとするとき、私たちはそれほど権威的であることはできないだろう。「私」は、自分が…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(3)

『道徳の系譜学』でニーチェは、私たちがいかにして自分の行為に反省的になれるか、また私たちは自分が行ったことを説明するために自分をいかなる位置におくか、という点をめぐって論争含みの説明を提示している。彼は、私たちは何らかの傷を受けた後に初め…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(2)

アドルノは、実存する個人の立場と意味を力説し、また道徳性の我有化という作業の不可欠さを力説するのに加えて、倫理的暴力の諸形式に反対する点で、ほとんどキルケゴール的である。しかし、アドルノはむろん、その正反対の立場に見られる誤りに対して警告…

 バトラー.J『自分自身を説明すること』(1)

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)作者: ジュディスバトラー,佐藤嘉幸,清水知子出版社/メーカー: 月曜社発売日: 2008/08/06メディア: 単行本購入: 12人 クリック: 87回この商品を含むブログ (30件) を見るGiving an Account of Onesel…

 バトラー.J『ジェンダー・トラブル』(5)

いわばつねにジェンダー化されていない人間など、これまで存在していただろうか。ジェンダーのしるしは、身体を人間の身体として「資格づける」もののようである。赤ん坊が人間化される瞬間は、「これ(it)は男の子か女の子か」という問いに答えられるとき…

 バトラー.J『ジェンダー・トラブル』(4)

第3章「攪乱的な身体行為」より。 『性の歴史』でフーコーは、解放主義や自由主義のモデルとしてセクシュアリティを捉える見方に対して、はっきりと反対の立場をとっている。そういったモデルは、カテゴリーとして――つまり権力関係を曖昧化する「結果」とし…

 バトラー.J『ジェンダー・トラブル』(3)

わたしが示唆したいのは、フェミニズムの主体の前提をなす普遍性や統一性は、主体が言説をつうじて機能するときの表象上の言説の制約によって、結果的には空洞化されてしまうということである。実際フェミニズムに安定した主体があると早まって主張し、それ…

 バトラー.J『ジェンダー・トラブル』(2)

しかしながら、主体概念を支える基盤主義の虚構のほかにも、女たちという語が共通のアイデンティティを意味すると仮定したときにフェミニズムが遭遇する政治問題が、もうひとつある。女たちという語は、それが記述し代表しているつもりの人々の合意を得るこ…

 バトラー.J『ジェンダー・トラブル』(1)

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱作者: ジュディスバトラー,Judith Butler,竹村和子出版社/メーカー: 青土社発売日: 1999/03メディア: 単行本購入: 4人 クリック: 74回この商品を含むブログ (65件) を見るGender Trouble: Feminis…